未来を生き抜くための「本当の知恵」
「次世代の教科書」は金風舎が運営する出版プロジェクトである。
「面白くて役に立つ本を次世代へ」をコンセプトに、電子書籍を中心にスマホやPCでいつでも読めるインターネット時代の学びの入り口、より良く生きるためのヒントを提供したいと思っている。
扱うジャンルは、「次世代で当たり前になるすべての知見」そして「まだ知られていないすべての知恵」。私たちは「面白い」と感じたものを極力否定せずに、次世代の当たり前になるタネかもしれないと積極的に受け入れていきたいと考えています。これを読んでいるあなた自身が考えていることが、「次世代の教科書」に載せるべき知恵かもしれない。
「次世代の教科書」というタイトルで新しい出版シリーズを作ろうと思ったのは、先行き不透明な時代を生きる私達にとって、最低限進むべき方向を定めるためのコンパスのようなものが必要だと思ったからだ。それは具体的な知識やスキルというよりも、「自分がどんな知識やスキルを身につけるべきかを判断する思考力」だと考えた。なぜなら、これからは特定の知識やスキルを身につければ人生安泰、という保証などどこにもないからだ(厳密に言えば今までだってなかったのだけれど)。自分が今何を学び、何に向かって進むべきかを、自分の判断で決められる力こそ、私達が真っ先に身に着けなければならないものだ。そういう力は、たぶん学校の勉強だけでは得られない。
今まで学校の教科書で習っていたような知識は、安定した時代を安全に生きるためにはピッタリ合っていた。けれど、先行きが不透明な時代に、「それさえあれば」生きていけるという保証はどこにもない。
だから、困難な時代を生き抜いていく私達にとっての「新しい教科書」が必要だと思った。
それは今までの学校の教科書を塗り替えていこうということじゃない。むしろ、学校の教科書の知識を「どう使えばいいか」を判断するためのトレーニングガイドのようなものだ。それはきっと、私達一人ひとりの中に根付いて、一生役立つスキルになる。だから「次世代の教科書」では、ただ知識を詰め込むんじゃなくて、それを生き抜く力に変えるための「問い」の形にして、読者にじっくり考えてもらおうと思う。どんなに役に立つ文章も、それを自分自身の人生に引き寄せて考えられなければ、右から左に素通りするだけになる(一夜漬けで覚えた知識がすぐ抜け落ちてしまうように)。
だけど、文章が心の奥底に刺さる「問い」として自分の中に入ってきた時、それは絶対に忘れることがない。たとえ知識そのものは抜け落ちたとしても、問いに悩み、自分なりに答えを出したという経験が、きっと人生の岐路に立たされたときの力になる。
私達は、読書を通してそういう力を作りたい。ひとりではなく、みんなで。
私達は、「次世代の教科書」というシリーズを、これからの時代を生きるすべての人達に届けたいと思っている。でも現状、試行錯誤の中でやっと土台を作っている段階で、完成といえるまでには正直程遠い。それでも、このシリーズが向かう先が、社会とそこで暮らす人々にとって価値のあるものになるということは確信を持って言える。
だから、このシリーズが本当に「次世代の教科書」としてふさわしいものになるかどうかは、今これを読んでいるあなた自身が見届けてほしい。そして、ぜひあなた自身が「次世代の教科書」とはどのようなものであるべきかを考えてみてほしい。なぜなら、きっと「次世代の教科書」は誰か一人の思惑で作るものじゃなく、あらゆる人の意見やアイデアを織り交ぜて作るべきだから。そんな未来も、決して夢じゃないと思っている。
問う力の大切さ
「自分がどんな知識やスキルを身につけるべきかを判断する思考力」はこれからの時代を生き抜く上で、どんな人にも必ず役に立つ力であると先述した。そして、併せて重要になるのは「問い」を立てる力だ。
与えられた問いに、期待された答えを出し続けていれば幸福に生きられる時代は終わった。これからは、自分なりの幸福を見つけるための「問い」に気づくことのほうが大切になっていくだろう。それは、ここ数年の私達の生活の変化を振り返ってみれば、より強い実感として得られるだろう。
考えてみたら人生というのはそもそも、様々な問いにぶつかって、その都度自分なりの答えを出していくということの連続だと思う。だが、これからはより一層「自分だけの」問いに向き合って、答えを出せるようになる必要がある。なぜか。
私達の人生を保証してくれる「大きな力」がなくなりつつあるからだ。それまでは、学歴だったり会社だったり役職だったりといった「大きな力」が人生を保証してくれるという希望があった。その希望があるから、そのゴールにむけてひたむきに頑張れたし、その過程で必要な勉強にあまり疑問を持たずとも、ある程度幸せに生きることが出来た。でもこれからは違う。
なんで今これを自分が勉強するのか?
なんで今学校に自分が通うのか?なんでこの進路を自分が選択するのか?
なんで自分はこれが好きなのか?なんでこれが自分は嫌いなのか?
あらゆる問いを自分自身に引き寄せて考えて、その問いに自分なりの答えを出して進んでいくというスタンスが根底になければ、人生で予想外のイベントにぶち当たったときに途方に暮れてしまうだろう。そしておそらく、「予想外」はこれからまた必ず起こるのだ(コロナウイルスで社会の状況が一変してしまうなんて、誰が正確に予測できただろう?)。
これから先、生きていれば必ず一度や二度は、真正面から「問い」を突きつけられる瞬間がある。それは進路や仕事を選ぶときかもしれないし、友人や家族と衝突するときかもしれない。そういうとき、否応なく「なんで?」を考えることになるのだけれど、正直、その問いに真剣に向き合うのは相当骨が折れる。
そんなとき、人は大抵深く考えるのをやめて、わかりやすい答えや、みんなが選んでいそうな答えに飛びつきがちだ。困難な状況から逃れるためだけを考えたら、その選択は正しい。でも、そういう人生の大切な分岐点で、その場しのぎで「なんとなく」や「面倒くさくない」答えを選ぶのは、長い目で見ればとても危険なことだ。
なんとなくで道を選んでも、結局その先で違和感を覚えて立ち止まってしまうことが多いだろう。そのとき、また自分に問いを突きつけて向き合えればいい。だが、その場しのぎで人生を過ごしてきてしまえば、困難が降り掛かったときにきっとまた安易な答えを選んでしまう。行き着く先に待っているのは、挑戦しない言い訳ばかりを並べ立て、うまく行かないことを時代のせいや過去の自分のせいにする姿だ。
今のはかなり極端な話だけれど、つまりは面倒くさい問いほど、早いうちに向き合って、うまく対処できるようになっていたほうがいい、ということ。自分らしさというのは、誰かと違う自分であろうとすることではなくて、こういった「問い」に対して自分なりに答えを出し続けようとする姿勢に宿ると思っている。そしてその力は、きっと訓練すれば身につく。
訓練とは、要するに「良質な問いに常日頃から触れていること」そして「それに対して自分なりの答えを出した経験を持っていること」だと思う。
いつか自分自身に降り掛かる逃れられない問いに直面する前に、予行演習として「与えられた問い」に向き合う力を育てるわけだ。
ともに問い、悩み、答えを出す。
ここまで「問い」の重要性について述べた。しかし、そうはいってもゼロから本質的な問いを生み出すことは難しい。そもそも、問いではなく答えを先回りして考えるような方法しか私達は学校で学んでこなかった。問う力が重要だとして、それをどうやって身に着けるべきなのか?
一部の才能(あるいは環境)に恵まれた人間は、意識せずとも自然にそういった思考パターンを手に入れるだろう。だが、その習慣を持ってこなかった(少なくともそう自覚している)人間はどうすればいいのか。読書がその答えであると、私達は自信を持って言いたい。
そもそも本というものは、著者が自分自身の切実な課題感をもとに問いを立て、それにとことん向き合った結果として紡ぎ出された問題解決のプロセスそのものだ。そして読書とは、その問いと答えの道筋をたどり、自分なりに噛み砕くという行為だ。そこから抽出される問い自体は、著者という自分以外の誰かが最初に立てたものかもしれない。だが、その問いに触れることで、自分の中に派生する問いや新しい知覚が生まれていく。そして、やがて本を離れて新たな問いを生み出していくのだ。つまり、読書という行為は「問いに触れることで、新しい問いを生み出す学びのプロセス」といえる。本は一番「熱量がある」学びのツール。もちろん読書以外にもこういった経験が得られるものはある。
だが先述したように、本とは著者が切実な思いを絞り出して書き上げた魂の作品だ。そこには、本気の熱量と一本軸が通った知恵の体系がある。そうでもしないと、誰かの心に響く一冊の本を書き上げることはできない。
即席でいい加減に作られた問いやその答えに触れたとしても、肌身に染みる学びは得られないだろう。だから、作るのが面倒くさくても、時間がかかっても、本というコンテンツにこだわるのだ。本を読むことでしか得られない学びの経験があり、その経験こそが「問う」力を引き出すと信じている。1人で悩まなくていい。「問い」にみんなと一緒に立ち向かう。本というコンテンツを軸にして、「問う力を養う」という方向性をさらに強めて多くの人に良質な学びを提供することが、次世代の教科書というサービスの使命だ。
最終的には、読書したあとの気づきやモヤモヤ、問いに対して出した自分なりの答えを著者や読者どうしで共有して、また違う問いや気づきを得るという学びのサイクルを作ろうと考えている。
自分1人で悩む必要はないのだ。最終的に自分なりの答えが見つかって、未来に向かって足を踏み出せればいい。「問い」と「答え」を、読者それぞれが主体となって共創していける未来。これが、「次世代の教科書」が目指す新しい学びのシステムであり、次世代の若者に対して自信を持って提示できる未来図なのだ。誰もが問いと真剣に向き合い、楽しめる世界を一緒に創りませんか。大言壮語だと思うかもしれない。実際、容易ではないと思う。これは、私達編集部の力だけでは絶対に達成できない未来だ。多種多様なバックグラウンドと熱意を持った、コンテンツの書き手の存在が不可欠だ。だから、一緒に創っていこう。次世代の若者が幸福に、力強く生き抜いていける未来のために。これを読んでいるあなた自身が、次世代を創る担い手の1人なのだから。
変わらないものと、変わり続けるもの。
出版業界がオワコンと言われ始めて久しい。実際、出版物の市場規模は雑誌、書籍を中心に確実に衰退傾向にある。だが、本当に出版という領域はいつか滅びてしまうのだろうか?それは違うと思う。
ここで出版業界全体の未来を深刻に語るつもりはない。だから今から書くのは、個人の実感レベルの話だ。いつの時代も人は心に響く言葉を求めている。心に響く言葉というのはいつの時代も必要とされるものだと思う。人類が言葉を発明した瞬間から、誰かの価値観を揺り動かす言葉や、そこから得られる人生訓が、それを読んだ人の一生を大きく変えてきたことは間違いない。接し方や程度の差こそあれど、いつの時代も人は言葉によって変化していくことを求めているのだ。
誰がいつ、どこで言葉というものを生み出したのかはわからないけれど、そこから何千、何万年という月日が流れた今でも、私達はますます言葉や文章の持つインパクトの大きさを実感している。現代社会で生きていく以上、日々のコミュニケーションは言葉のやり取りそのものだ。プライベートな時間でも、SNSなど日頃触れるコンテンツの多くが、誰かが発した言葉としてインプットされる。
私達は、日々の感性のほとんどを「言葉を読み解くこと」に費やしている。言葉によって疲弊することもある。だが、言葉によって救われることも多い。何気なく読んだTwitterの一文が、その後の人生を大きく変えてしまう衝撃を与えることもある。それこそnoteで誰もが言葉の届け手になり得る今、言葉によって生まれる感動や学びの機会はますます増えていくだろう。
ならば、そんな「全員が書き手になり得る時代」における出版の役割とはなにか。それは、書き手の言葉を、なるべく洗練された形で世に届け広めることだと思う。noteで個人的に文章を書くことは誰でもできる。でも、それを本にして世に広めようとすれば、ふだん書いている以上の意志と思考力が必要になる。
つまり、本を作るという決断とプロセス自体が、書き手のレベルを一段階引き上げることになる。そこに編集という他者の視点が加われば、書き手の思考はさらに研ぎ澄まされていく。そうして洗練されていった文章は、書き手の人生をかけたメッセージとして、読者の心を大きく揺り動かしうるものとなる。「書く」という行為は、今やほとんど誰でも出来るがゆえに、それに人生をかけて取り組むことは意外と簡単ではない。
出版という領域の特権が薄れていく今だからこそ、「本当に伝えるべきこと」を吟味して、あえて本の形にすることが持つ意味は大きい。言葉が持つ変わらない価値を、書き手とともに洗練し、忘れられないように未来につないでいく。それがきっと、今の時代に出版が担うべき役割だ。
手段を変えることを恐れない。だが一方で、「変わっていくべきもの」にも目を向けなければならない。良くも悪くも、「時代遅れ」のものには人は目を向けない。誰かに伝えたいと思って書いた言葉も、振り向きもされなければ意味がないのだ。だから、「次世代の教科書」では、時代に合った伝え方の手法として電子書籍とWebサイトという形式を選んだ。
それはいい文章をいち早く必要とする人に届けたい、どんな場所でも読めるようにしてほしいという思いからだ。様々な著者の様々な生き方・考え方に、よりたくさん、より濃密に触れてもらうための最適解。本が投げかける問いに対して自分なりの答えを生み出し続けるという、読書だけが持つ体験の提供。今こそ、それが必要だと強く思ったからこのスタイルを選んだ。
人こそが教科書。
どんな新しい試みにも、その根底には言葉が持つ「変わらない価値」への信頼がある。その信頼に共感してもらえる人は、きっと誰でも「次世代の教科書」の作り手になり得ると思っている。実際、新しい教科書の作り手になるべきなのは、たくさん知識を持っている人ではなく、誰かに何かを伝えたいという強い意志を持っている人だ。そういう人には、言葉の持つ変わらない価値の輝きが眠っている。その輝きを、未来に向けて届けるサポートをしたい。
言葉によって救われ、言葉によって誰かを救おうとしているあなたへ。今まさに、なにかを書こうと思っている人へ。「次世代の教科書」にあなたの本が並ぶ日を待ち望んでいます。
「中途半端」がつなぐ次世代のバトン
「次世代の教科書」は、次世代を生きる人達にとって本当に役立つものを、出版の力を通して世の中に届けようというプロジェクトだ。
だが、そもそも「次世代」というものをどう定義すべきなのか?なにをもって「教科書」と豪語できるのか?それをしっかりと伝えないまま、このサービスの価値を信じろというのは無理があるだろう。今回はそのあたりのお話をしたい。
次世代と聞いて思い浮かべるものはなんだろう?
社会・経済的な側面に焦点を当てれば「自動運転やIoTが進んだ近未来的な社会」とか、「ジェンダーや生き方の多様化が進んで、自由に生きられるようになるイメージ」といったかもしれない。
人に焦点を当てるなら、「自分よりも若い人」「10代の子どもたち」といったイメージが強いだろう。ジェネレーションギャップというように、自分とは異なる価値観をもった新しい生き方の若者たちは「次世代」感が強い。それは当然といえば当然で、今社会で通用している常識には縛られない、刷新された未来を生きる人たちこそが「次世代」の中核であるのは誰が見ても明らかだ。だからこそ「次世代の教科書」も、高校生を中心とした若者世代に読んでほしいと思っている。だが、果たして次世代とは彼らだけのことなのか?いい意味でも悪い意味でも社会の激流に浸かり、「大人になってしまった」人間は次世代とは言えないのか?
それは違うと思う。次世代という言葉を単純な若さではなく、「常識にとらわれず、現実に即した未来を柔軟に創っていく」という意識の現れとして解釈したらどうだろう。
年齢に関わらず、バイアスなく自分の周りの社会や自分自身の生き方について考えを巡らせることができる人こそ、次世代に生きる人といえる。それは、10代だろうと80代だろうと、あまり関係がないと思っている。10代の高校生を次世代の代名詞にしているのは、彼らが比較的社会的な常識や「こうあるべき」という義務感から自由で、かつ鋭い思考力で物事を見ることができると思うからだ。それはシンプルに年齢や心身の若さに起因するものでもあるだろうけれど、やはり社会の激流にいい意味で触れていないからこその素直さなのだと思う。
だが、社会の冷たさや厳しさ、それでも立ち向かっていくことの興奮や楽しさを知った人間だからこそ作っていける「次世代」があるとも考える。というより、そうやって必死に生きてきた人生そのものが、次世代に語り継ぐべき立派な学びであり、教科書なのだ。
自分の頭で考え、自分の足で必死に進んできた人間の言葉には、年齢や価値観の違いにとらわれない生き生きとした学びがある。それはきっと、心が若く未来を向いているということだ。
年齢ではない。心にこそ次世代の精神は宿る。
これを書いている私(「次世代の教科書」編集部デスク)自身は20代後半で、世間的には「まだまだ未熟な若者」と「成熟しているべき大人」の中間的なポジションにいると思っている。
そんな私は「次世代」のグラデーションのどこにいるのだろうか。だって、10代のように完全にまっさらで自由な考え方をインストールしているわけでもない。でも、いわゆる「しっかりした大人」といったような分別と落ち着きを備えているわけでもない。若者にメッセージとして伝えられるレベルの人生経験を積んでいるとも言えない。
「どっちつかず」といったポジションが一番しっくり来ると思う。若者と大人の中間で右往左往している中途半端な状態。でも、だからこそ、その両者をつなぐ架け橋的なポジションになれると思っている。次世代の精神は心に宿る。
中途半端な立ち位置だからこそ見える景色がある。そこから生まれる思いがある。次世代へ知恵をつなぐバトンは、たぶんこういう中途半端な人間が作るべきなのだ。だから、こんな大それたことを敢えて公言している。
経験のなさを武器にする。
さて、そもそもこんな大それたプロジェクトを作っているのはどんな人間なのか。新しい教科書をつくるなんて豪語できる資格はあるのか?
これを書いている私(デスク)は28歳(2022年、現在)、いままでに編集者の経験は無し。編集メンバーはほか1名。26歳。こちらも編集経験無し。金風舎代表の香月は編集者として長年の経験があるけれど、それでも今からやろうとしていることは全く未知数の領域だ。
メンバーの顔ぶれだけ見ると、無謀も良いところだ。
経験がないと良いものは作れないのか?でもむしろ、その経験則のなさが逆手に取れると思っている。現時点で、私の中には出版業界における常識というものがそこまでない。企画の作り方という観点でも、出版流通の常識という観点からしても、読者としての常識感覚はあれど、作り手としての常識感覚はあまりない。
今までの大勢と同じことをしようとすれば、その性質はマイナスに働くだろう。もっと勉強しろ!と先輩から怒られるやつだ。だが、既存の枠組みを超えた新しい価値づくりをしようとしたときにはどうだろう。
常識がない、ということが逆に自信や行動力につながるかもしれない。
「新しい教科書づくり」なんていう大上段のコンセプトに関してもそうだ。出版業界の影響力とか、学校の教科書との関係性とか、そういうものを気にしてリスクヘッジする、という考えがあまりない。
持って生まれた人間としての性質云々じゃなくて、シンプルに経験がないから恐れを知らないという話なのだけれど(ちなみに自分自身は基本的に臆病でリスクを取りたらがない性格だ)、でもその経験のなさは、新しい価値を作りに行く際には武器になると思った。
価値あると思うことを素直に世に問うてみる、いい意味での無謀さのようなものがある。経験による積み上げがないからこそ、フラットな気持ちで次世代を作ろうと思える。私は完璧にフレッシュとまではいえない中途半端なポジションだけれど、だからこそ、旧世代と新しい世代との架け橋になれる。
ちなみに「次世代の教科書」は学校の教科書や今までの知の体系を否定するものではなくて、お互いが補完し合いながらより良い人生を送れるようにするためのものだ。この点、誤解なきよう……(さっそく臆病な性格が出た)。
そういった誤解を恐れず教科書と名付けたのは、今まで学んできたものとその価値をいったん客観的に捉え直す機会を作りたいと思ったからだ。そして、読者自身の人生にとって本当に必要なものを改めて考えるきっかけを作れると思ったからだ。
そういう意味では、今までの教科書と、「次世代の教科書」の2つのスタンダードを持った人間は最強かもしれない。
だって、生き方と知恵の体系を2つも自分の中に持っているのだから。
私達は、若い世代が必要だと思ったもの、そして今の世の中に見当たらないものを作ろうとしているだけなのだ。原始時代、獲物を狩るために石器を生み出したように。そして、誰かの意見や学びを広めるためにヨーロッパで活版印刷技術が生まれたときのように。
歴史を作る、なんていうのは大げさに聞こえるけれど、この無謀な営みが時代を何らかの形で変えるきっかけになるのなら、やり続ける価値は十分にある。
挫折した哲学青年、6年越しに本を作りだす。
もう少し私(デスク)の話をしたいと思う。私は大学時代、哲学を専攻していた。
哲学というものは今思い返しても数奇な学問で、分厚い書物のたった数ページを何ヶ月もかけて読み解くなんてことはざらだった。
先人の哲学者たちが、文字通り人生をかけて作り上げた知の体系に触れることはゾクゾクするくらい魅惑的な体験でもあったし、「この本を読み切るころには寿命が来ているかもな」なんて想像して笑ってしまうのもそれはそれで楽しかった。
でも、結局私は、学問としての哲学の世界に進むことを諦めた。難解な哲学的テーマに向き合い続けるには、それ相応の思考的体力がいる。「小学生の頃から哲学書を読んできた」「死にたくなったときに哲学が自分を救ってくれた」
そんな原体験や、哲学への絶対の信頼を持って学問に明け暮れ、寝食を忘れて思索に耽る学友たちを横目で見ながら、私は少しずつ気づき始めていた。私には、哲学に向き合い続けるだけの才能がないと。
それから、それなりの紆余曲折があり、金風舎のメンバーになり、私は「次世代の教科書」という出版シリーズのデスクを任された。大学を卒業してから約6年。自分でも不思議なほど、本づくりに対する抗えない引力があることを感じていた。
だが正直なところ、自分には力不足だと思っていた。ていうか、今でもそう思っている。
編集者をした経験など今まで一度たりともない。本はそれなりに読んできたが、ただ読んできたというだけの話だ。自分で企画を立て、著者とやり取りし、世に広まるように一冊の本を形作っていく。それだけでも困難なことだと思うのに、ましてやそれをひとつのシリーズとして体系的にまとめ上げて世に問うなど、果てしない所業だと思った。
でも、始めたからには、任されたからには、やってみるしかない。大学を卒業してからの「紆余曲折」の過程で、それくらいの覚悟は身に付けていた。
私は考えた。
私自身の経験、学んできたこと、信じているものを今どう役立てるかを。信念のない出版はただの文字のたたき売りだ。新しい教科書として若者に提示できる信念はいったいなんなのか。
そして、数年ぶりに大学時代のことを真剣に思い返した。哲学とはどんな試みであったか。私が信じ、次世代に伝えていきたいものは、その中にあるのではないか。
*
有名な哲学者に、ソクラテスという人がいる。
もう何千年も前、古代ギリシア時代を生きた人だ。
このおじさんは(なぜかソクラテスは髭をたんまり蓄えたシワだらけの姿で描かれることが多い)、「問答法」という哲学の手法を生み出した。
ごく簡単に言えば、問答法とは読んで字のごとく「問い続ける」ことによって真理を導き出そうとする試みのことだ。
このひげおじさん……いやソクラテスは、わからないことに知ったふりをせずに、問い続けることの大切さを説いた。まあそれが行き過ぎて、偉い学者に喧嘩をふっかけ回っていたら、裁判沙汰になって最終的に死刑になってしまったのだけれど。
私は、この「知ったふりをせずに問い続ける」という姿勢が好きだ。それは、すぐに答えを出そうとする自分自身への戒めでもあるのだけれど、とにかくこの「問い続ける」というところに哲学の最大の魅力があるのではないかと思っている。
そして、いまこの時代だからこそ、この問答法の姿勢が役に立つのではないかと思うのだ。
*
いまや私達の日常には、「確からしい」情報があふれかえっている。
SNSを開けば、誰もがそれぞれの真実を主張している。
社会について。
性について。
教育について。
恋愛について。
生き方について。
個人が声高に自分の意見を主張できる世の中になったのは希望である一方で、その主張すべてにさらされて疲弊してしまう瞬間があるのも確かだ。玉石混交の、「真実めいたもの」たち。私はそういった情報に対面したとき、ソクラテスを思い出す。そして、自分自身にこう問う。
この主張は、「自分にとって」本当に正しいのかどうか、と。
*
有名な人や、大人や、友人や、上司や、そういった影響力の強い人間やグループに惑わされず、「自分にとって」の真実をとことんまで突き詰める(それが腑に落ちるまで問い続ける)ことは、正直にいって苦しい。
周りのみんなが言うことに従って過ごしていた方が、生活は楽だ。
でも、私は思う。
そういう生き方は、絶対にあとで苦しくなる。自分と自分以外の現実が乖離したまま、「本当の自分はここにはいない」という感覚だけが強くなっていく。そういう生き方を、自分はしたくない。そして、これからの世代を生きる人たちにも、してほしくない。だから、「次世代の教科書」というものを世に出すときに、「問い続ける姿勢を養う」というコンセプトを作った。
ソクラテスは、「無知の知」という言葉も残している。私達はみな、何かを知ったような口ぶりで日々を過ごしているけれど、本当の意味で「知っていること」はどれだけあるんだろう。「自分は無知だ」と自覚できている人だけが、なにかを本当に知ろうと思える。問い続けることによって。
*
誤解してほしくないのは、問い続けることは強制されるものじゃないということ。大切なのは、「自分自身にとって必要な問い」を立てるセンスだ。そして、問いは必ずしも「生き方」とか「社会」とか大きくて難しい言葉である必要はないということ。スマートフォンはなぜ四角なのか?とかそんなことでもいい。小さな問いから、やがて自分自身の根底につながる問いへとつながっていく。そういう面白さに、きっとたどり着くことができる。
私たち出版社にできることは、あくまで問いを立てるための入口と、誰かが歩いた跡を本として見せられるようにするだけだ。でも、きっとそれが次世代の若者の生きる力につながると、信じている。
「大人」としての私たちが残せるもの
「次世代の若者にむけて、先人たちが残せるものはなにか?」
もっと分かりやすく言えば、大人が子供に与えられる価値とはなにか?
それを出版という形でどう届ければいいのか?
大人になりつつある自分が、まだ世間知らずの若者のままの自分に対して問いかけている。
「大人としてのお前は、私に何ができるんだ」と。
「教科書と偉そうに名付けるのはいいが、それでお前は私に何を与えられるんだ」と。
大人としての私は、ますます頭を悩ませる。いろんな答え方を考える。言葉の上ではいろんなことが言えてしまう。なまじ抽象的なことを考えるのが好きだから、煙に巻くようなチンプンカンプンなことを訳知り顔で答えそうになってしまう。
でも、ちょっとまって。ここは踏ん張りどころだ。本当に彼にとって(次世代の若者にとって、そして子供としての私にとって)役に立つといえる価値はなんだろう。彼の人生に、出版の力で貢献できることの真髄とはなんだろう。
……。
私は、長い沈黙のあとにこう答える。あなたに私ができることは「可能性の海で溺れないようにしてあげること」だと。私達の周りには、若者の生き方の可能性を示すような情報がとめどなく溢れかえっている。自分の生活の隅々を見渡してほしい。とくにSNSでは、今日も誰かがひっきりなしに自分の人生や他人の人生に怒った出来事を取り上げている。Youtubeを開けば、個性的な発信者が思わず目を引いてしまうようなコンテンツを作り続けている。
それらはすべて、等身大の自分自身の延長線上にあるように見える。手の届きそうな、ちょうどいい感じの理想郷。それは、可能性という希望に満ちた大海のように思える。
だけど、ちょっとまって。
その理想郷は、あなた自身の足元と地続きなんだろうか。広大なネット空間を漂って、可能性の麻薬に身を浸して気持ちよくなっても、最後に戻ってくるのはとても生々しくリアルな生活だ。そして、そこに素足で立っている自分自身だ。
いろんな人の成功物語や、楽しく暮らしている様子に表層だけ触れていると、あたかも自分がそれを追体験したかのような錯覚をもたらす。それは、つまらない日常にみずみずしさを与えてくれる「可能性のおやつ」のようなものだ。
だが、それはあくまで可能性だ。しかも、受け取る人にとって心地よいように、きれいに加工された可能性だ。SNSやニュースでは、いわゆる成功者バイアスによって「うまく行った人の話」しか取り沙汰されない。でも実際には、その裏側にたくさんの失敗した人たち、挫折した人たちがいる。そして、彼らにまで言及している情報は少ない。
成功を夢見て、熱量の高い誰かの物語に共感する。それはそれで青春期の価値だと思う。情熱がなければ、人は生きていけない。そして、情熱とは究極的には根拠のないものであることも確かだ。
だが、その情熱の行く先は、本当にあなた自身が歩いていくべき道なのか。あなた自身が、誰に惑わされることもなく考え抜き、腹落ちした結果の道のりなのか。
そこまで考えて、こう自分に問い直す。お前が今からやろうとしている出版という取り組みだって、その「無責任な可能性」をいたずらに増やすだけじゃないのか?たしかにそうかもしれない。でも、そうじゃないところに向かいたいと強く思う。それは「無責任な可能性の提示」と「可能性を閉ざしてしまうこと」の間の部分を模索するという未来だ。
良くも悪くも、自分が大人だという自覚を持った人間は、それなりの人生経験を持っている。あらゆる辛酸と、その中での幸福の在り方を知った大人だからこそ伝えられることがある。それは、可能性の海の中で、たくましく泳いでいく方法を教えてあげることだ。
その結果、教えた相手がどこに向かっていくかまではコントロールできないし、するべきではない。でも、大きな波にさらわれそうになった時、「ああ、そういえばあの時あの大人はこう泳げばいいと言っていたな」と思い出すかもしれない。それが窮地を脱するきっかけになるかもしれない。
そういう形でしか、人生経験というものは若いエネルギーに対して役に立てないのではないか。そして、誰かの人生経験を教えに変える「次世代の教科書」というプロジェクトが担うべき役割も、きっとそこにある。圧倒的な知の体系にはなれないかもしれない。誰にとっても目から鱗が落ちるような画期的な情報ではないかもしれない。それでも、誰かの人生のある瞬間を支えられるようなものにできれば。それはきっと、次の時代の教科書と言ってもいいのではないか。
次世代では、そもそも大人と若者という区別そのものが意味をなさなくなるのかもしれない。そもそも、私自身がまだ大人でも若者でもないような曖昧な存在だと思っている。やがて、年齢や属性や経験に関係なく、必要な知識を柔軟にインストールしていくことが常識になるのかもしれない。きっと、そういう価値観を持った人たちの人生も学びに変えるべきだろう。大人は、大人であることに安住せず、常に新しい存在に変わっていくべきだとも思う。
それでも、大人として若い世代に残せるもの(それはずっと昔から変わらず続いてきた営みだと思う)が、確実に存在するならば。
「なにを偉そうに……」という非難も真っ向から受けながら、これからを生きる若者たちが、可能性の海で溺れないための本当の知恵を届け続けたいと思うのだ。
「まだ見ぬ新しい星」とつくる明るい未来
これまで「次世代の教科書」に込めたおもいを語ってきた。そんな編集部であるが、2024年6月現在、シリーズとして9冊の書籍を出版してきた。著者は弁護士、ライター、僧侶、俳人など多彩なバックグラウンドを持っている。今後も特定の領域に囚われず、面白い取り組みをしている方々にフォーカスして新刊を出版していく。
そのためにも、様々な足場を持ち固定観念にとらわれず、次世代に必要な「問い」を持ちながら活動している多様な著者と出会っていきたい。そのような著者は言うなれば、星座の影に隠れた「まだ見ぬ新しい星」だ。このプロジェクトを通じて、研究やビジネス、芸術、文学など様々なフィールド、まさに広大な星空の中で面白い実践をしている方々の輝きを出版という形で増幅させ、社会に認知されるための後押しをする。
そうして星々のまだ開かれていない知恵が、出版を通して開かれることによって、また次の「問い」へと繋がり、「本当」に必要なこと、大切にしたいことをみんなで考えるきっかけになるのではないか。繰り返すようだが、「全員が書き手になり得る時代」そして、「本に書きたいことはあるけど、出版からは縁遠くて広く知られていない」という著者に光を当てる役割を「次世代の教科書」で担いたい。
その追い風になっているのがテクノロジーが発展した現代だ。「インターネット」という言葉が流行語にノミネートされたのが1995年。それからPC、スマホの普及に後押しされてインターネットは爆発的に広まり、いまや私たちの生活に欠かせないものになった。スマホひとつあれば、世界中の情報を手に入れられ、好きなことを発信できる時代。そんな可能性を秘めた今だからこそ様々な媒体で発信できる仕組みが必要だ。偉い学者や超人気者だけが知恵を出版という形にできるのではなく、多くの人にとって、もっと身近な人の知恵が「次世代の教科書」として必要なのではないか。
youtubeやSNSでいくらでも発信できる時代。誰かの知恵に触れる機会、そして自身の知恵を誰かに提供する行為のハードルは下がり続けている。だからこそ、本という形で、体系だった文章として考えをまとめておくことは、まずなにより自分にとって大きな財産になる。めまぐるしい時間と情報の奔流のなかで、考えてきたこと、為してきたことを永久保存できる媒体として。そして、そうして紡がれた誰かの人生の珠玉の知恵は、きっとその人以外の誰かにとっても価値になるものだ。もちろん、これからの世代にとっても。
「次世代の教科書」プロジェクトを通して、著者の出版のハードルを下げて、「本を出す」という情報発信の新しい可能性を見出してもらいたい。そのために、「次世代の教科書」では電子書籍出版を出発点とした本の編集・制作・販売すべてをサポートする。大多数の「本を出したい」と考える人たちにとって、紙の本をいきなり出すのはハードルが高いことだと思う。シンプルに多くの時間と労力と費用がかかるから。だからまず電子書籍でテスト的に出版してみて、手応えを感じたらそれをもとに紙の本をつくる。そういう「本づくりの実験場」をつくりたいと考えている。
これは「面白くて役に立つ本を次世代へ」というわたしたちのゴールにとっても喜ばしいことだ。いままで出版という場では汲み上げられなかった価値ある意見や学びが、このプロジェクトを通して世に出ていく。そしてそれらが集約されて、次世代にとってのあたらしい教科書ができていくのだから。そのためにも「プロセス」を開くことを行う。つまり、本をつくる過程そのものをコンテンツにして世に出していこうというものだ。
たとえば、執筆中の原稿を公開して、それに対する読者の反応も盛り込んで本の内容をより良くしていく。他にも、執筆の進捗をブログのように定期的に世に出して、自分自身の執筆のモチベーションにするなど。あるいは、電子書籍にする前にひとつの記事コンテンツとして売ってみて、反応を見て本の内容を吟味してみるというのもありだ。イラストが出来上がっていく様子を紹介する動画や、企業の創業秘話を物語にした映画がバズるように、いままで多くがブラックボックスになっていた「執筆を開始してから本が完成するまで」の道のりそのものが、読者にとって面白いコンテンツになると考えている。
「次世代の教科書」では、著者がこういったプロセスを発信するサポートする。
・本を作って、売るための新たな実験の場所の提供。
・そのための編集・制作・デザイン・webサイトの提供。
・次世代のために価値還元ができること。
本を書く行為の中で自分自身の考えを俯瞰することで、価値観が更新されたり、違ったテーマが見つかったりすることもあるだろう。そのような「更新と変容」を促すことも出版の役割であり、著者のそういった営みをサポートしていきたいと考えている。そういう意味では、「次世代の教科書」とは著者自身の未来にとっての教科書(学び直しの場所)、という意味でもある。
本とは人の感情や考え、行動を示すものだろう。不確実で不透明なこの世界で、それでも前に、未来に向かって進んでいこうという前向きな思考や実践をしている人はたくさんいて、そこから得られる学びはとても貴重で重要なものだと確信している。つまり本は、人そのものであり、誰かにむかってその知見が本として開かれる時、それは読者の人生を照らす星になる。
「次世代の教科書」が目指すのは、そんな営みを未来に残し続けていくこと。 次世代に「まだ存在しない新しい光を生み出していきたい」という思いでこれからもプロジェクトを進めていく。「まだ見ぬ新しい星」は紛れもなくこれを読んでくれているあなただ。ともに未来を明るく照らしていこう。
コメントをするには会員登録・ログインが必要です
会員登録・ログイン