道路の白線以外を歩いたら死ぬ。
あの人は陰で私の悪口を言っている。
今聴いてる曲がこの車両の中で爆音で流れて、皆が踊り出したらどうしよう。
この水を飲めばウイルスにはかからない。
推しカプは付き合っている。
人にはいろんな妄想の形がある。程度の差はあれ、これはあくまで妄想だとわかっているものもあれば、現実に非現実が混じっていって、区別がつかなくなるような妄想の形もある。
一体「現実」とはなんだろう。現実と妄想の違いって、正常な区別や判断ってどういうことだろう。ひとつひとつ立ち止まって考えたくなるが、それはひとまず置いておく。
野球が好きで、野球友達とよく観戦に行っていた時期がある。平日の空いている内野席に座って、応援グッズも特に使わず観戦する。私も友達も特定のチームを熱心に応援しているというよりは、「野球が好き」という点で一致していた。ヤジを放ったり、チームが負けて荒れたりはしない穏やかな野球ファンだった。それでも比較的贔屓のチームや選手はいて、贔屓チームが負け始めると、友達と二人で「ここから逆転する未来」をああだこうだと考えた。「ここで抑えて、次の回で誰と誰が打ってホームまで帰ってきて逆転」だったり、何も思いつかないときは「ツーアウトからのホームラン」だったり「結局最終回を無失点で抑える」だったり。
こうなると最高にアガる、そんな思いつきの勝利の方程式を「私の青写真」と呼んで、無邪気で図々しく、それぞれにでたらめな想像を披露しあっては楽しんでいた。結局そんな青写真が現実になることはまずなく、贔屓のチームは打たれたり、打てなかったり、勝ったり負けたりした。最近は球場に足をはこぶことも少なくなったが、ビールも飲まずにただただ試合の行方を自由に思い描いてキャッキャと笑い合っていたあの時間は、野球観戦の中でも、もしかしたら一番楽しい時間だったかもしれない。
これから私が語る「妄想」とは、この「青写真」的なものだと思ってほしい。無邪気で図々しく、現実になってもならなくても全然かまわない妄想。そんな妄想を普段づかいで実践している日々がどんな感じか、書いてみようと思う。
1.未来の青写真
ざっくりとした将来の計画や、未来予想図を意味する「青写真」。私はこの青写真を日常生活の中で描いていることが多い。ざっくりではあるが、やたら具体的だと友達によく言われる。たとえば本のアイデアが浮かんだら、どんな書店に置かれて、そこでトークイベントをやってと、まだ影も形もないのに本がどんなふうに世の中に出ているかを見てきたように話す。装丁や表紙はこんな感じで、帯文は誰が書いていて、図書館に置かれて、学校の保健室にも置かれて……と、妄想が膨らんでいく。別に現実にならなくていい。自由に血が通っていくのが楽しい。自由に絵を描く妄想には、現実ですり減ってしぼんだ精神を癒す、実態のない栄養価がある。
実態はないが、効用はあるかもしれない。
たとえば、私は妙に引越し運が良い。私は人生で三〜四回、毎日その土地や風景を賛美し続けたくなる土地に住んでいた。別に一等地でも高級住宅地でもない。資金に余裕があるわけでもない。普通の賃貸だ。だけど、こんな場所よく見つけたね、と言われるようなところに流れ着くことが多い。そういうところに住むと、朝ゴミ捨てに出るだけで、目の前に広がる風景に包み込まれ、からだの底から感嘆する。一日一度は胸が高鳴る幸せが、外に出るだけでもらえるなんて、まるでログインボーナスのようだ。風景なんてすぐに飽きると思うかもしれないが、美はこちらを慣れさせてくれない。
現在もそうだ。つい先日、三年住んだ横浜から、鎌倉に引越しをした。まだ住んで二ヶ月にもならないが、海と山と、歴史が深く重なるこの土地で暮らせたことは、私の人生の中でも最も幸福なことなのではないかと既に思っている。横浜でもそう思っていたし、イギリスで留学していた海辺の街ブライトンでも、そしてこれまで住んできたいろんな土地でもそう思っていた。つくづく自分はおめでたい人だと思う。
余程前世で徳を積んでいたのでなければ、今世での習慣が功を奏しているのかもしれない。そしてその習慣とは、この妄想青写真を描くことなのだ。引越しを例に、どんなふうに妄想を取り入れているか書いてみる。
引越し大作戦
横浜・妙蓮寺では、そこでの生活からうまれたエッセイ集『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE』(三輪舎)、『臆病者の自転車生活』(亜紀書房)が二冊刊行され、そのきっかけとなった本屋・生活綴方には、本を読んでくれた人が全国から訪ねてきてくれるという、著者冥利につきるような日々を過ごした。当時住んでいたのは家賃も五万円程という、都内の水準から考えるととても安いアパートだった。恵まれた環境にいるのに、なぜ引越しを考え始めたのかというと、自分の中で、もっと自然の中で暮らしたいという渇望があったからだった。坂の上にあるアパートは、見晴らしがとても良い。毎日美しいなと思う場所だった。だけど、私が求めている自然は、もっと深いものだった。土があるところで暮らしたい。できればもっと海の近くに住みたい。それを書籍の後書きに書くほどには、飢えていたと思う。
それで物件を探し始めた。もちろんアプリでとりあえず探したりもするが、一番最初にやるのは、青写真を描くことだ。どんな場所、どんな家、どんな広さ……どんな環境だったら自分は一番ワクワクして、満たされるだろう? ワクワクして満たされるって、そもそもどんな感じだろう? その時の私は具体的にどんな姿をしているだろう? それを思い浮かべて、ノートに描く。浮かんできたビジュアルはスケッチで絵で描く。間取りも絵にする。
間取りだけではなくて、その様子を何度も絵に描いた。壁紙の色も考えた。そのうち、新居に置くんだといって、数万円するフロアランプを買った。新居に飾るといって、ポーランドの手織りタペストリーも買った。いずれも、新居の影も形も、何なら引越し資金さえなかった時期だ。それでも、新居は完全に「見えて」いたのだ。
この妄想青写真大会で重要(?)なのは、現実的な諸条件はいったん考えないことだ。ここは聖なる妄想フィールド。例えば、素直な自分の心に問うと、本当は、リビング、自分の寝室、自分の部屋が欲しいとする。となると2DKだ。まあでもどう考えてもその広さは、自分の今の稼ぎでは払えそうにないとする。そうすると、やっぱり1DKで……と妄想なのに妥協したり、あ、誰かとルームシェアをするか……なんて、こざかしい考えが働き始める。別に誰かと住みたいなんて思ってないくせに。しょっぱい「現実」思考にはお引き取り願おう。
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