はじめに
「SFはただの娯楽ではなく、人間の想像力を広げるというきちんとした役割がある。」
The Physics of Star Trek by Lawrence Krauss, Stephen Hawking, HarperClooins Publishers
妄想について考えると、右に引用した物理学者スティーヴン・ホーキングの言葉を思い出します。
ホーキングによれば、SFに描かれるような空想的な事象は、時として科学者の発想を刺激するし、反対に、科学者による発見や理論をもとにして、SF作家がよりぶっ飛んだ発想を披露することもあるというのです。
妄想が世界をつくり、世界が妄想をつくる。
妄想と言うと、この世界から分離した特殊で無益でへんてこりんなものだと考えられることが多いようです。妄想なんてしてないで勉強しなさい!とか、もっと現実に向き合えとか言われるように、妄想は悪いものと思われているかもしれません。
しかし今回は、妄想は現実にとって有益なものであることを説き、更に妄想を現実のものとする方法まで考えてみたいと思っています。
この文章を読んだ人が、もっと積極的に妄想をして、現実をもっと面白くしてくれたら、とっても嬉しいです。
妄想を形にする仕事
申し遅れました。作家の渡辺祐真と言います。面白い文学作品について紹介するのが主な仕事です。しばらく前まではゲームクリエイターとしても活動していました。
文学とゲームは一見すると違う分野ですが、どちらも人の妄想を形にするという意味では共通しています。文学なら文字で、ゲームは映像や音楽で。振り返ってみると、僕は幼い頃から妄想が大好きな子供でした。
小学生のときは人形遊びをしたり、漫画を描いたりしていました。家にあるフィギュアや人形を使って、勝手にストーリーやキャラクター、関係性をつくり、彼らを用いて即興劇を作る。完全な妄想ですね。
ただ、それだけだと、人形を片付けてしまったらもう物語の痕跡はなくなってしまいますし、家に誰かを呼ばないとその物語を共有することはできません。そこで、それを紙に描いてみます。漫画です。すると、いつどこでも、その妄想を共有することができるようになりました。すごい!
しかも、その妄想を楽しんでくれる友達がいる。すごいすごい!なんて楽しいんだろうと病みつきになってしまいました。その感動のまま、中学高校では、ゲームを自作したり、小説を書いたりしていました。今の仕事もその延長線上にあります。
ここで挙げたのは、ゲーム、人形、絵、文字など、手段は様々ですが、どれも妄想に形を与えている営みです。
冷静に考えてみてほしいのですが、自分の頭の中で好き勝手に自由に考えあげた、めちゃくちゃなものを、誰かと分かち合うことができて、しかもそれを楽しんでもらえるって感動的なことだと思いませんか。
受け手の視点に立てば、世界中の天才たちの頭から生まれてきた、とんでもない妄想を楽しませてもらうことができる。しかも、その天才は違う国や違う時代の人でも構わない。何百年、何千年も前に創られた絵や文学、音楽に感動できるのは、そうした奇跡のおかげです。
そう、僕たちは妄想をし、それを形にして、多くの人と共有することができるという、結構すごい能力と手段を持っているんです。
妄想を現実化する手段と制限
ここまでで、僕たちは妄想をして、それに形を与えることができる、具体的には文学、美術、音楽、ゲームなど……という話をしてきました。
ここからは、「形を与える」というフェーズがとても大切だという話をしたいと思います。
どういうこと? と思われたと思います。ぐっと話を進めていきますので、頑張ってついてきてください。
人間の頭の中には色々な妄想が駆け巡っています。映像的な妄想、音の妄想、匂いや手触りの妄想(どこまで実感できるかは不明)など。
頭の中なのでかなり自由度が高いはずですが、いざそれを現実化しようとすると、それをまるごと形にするのは難しいものです。
例えば、今あなたの頭の中には、お菓子の国の妄想が広がっているとしましょう。あたり一面、色とりどりのケーキに満ち溢れています。さわるとふわふわして、とっても甘い匂い。ちょっと掬って舐めてみたら、天にも昇るような味わいが口いっぱいに広がります。
では、この妄想を何らかの方法で現実のものとしてみるとどうでしょうか。
まず最大限に妄想の通り、現実にするのなら、本当に巨大なお菓子たちを作り、王国のように配列する、という方法があります。しかしこれは難しいでしょう。場所、予算、衛生など、様々にクリアしないといけないハードルがあるためです。
ならばイラストにしてみてはどうか。頭の中にあるお菓子の国をそっくりそのまま絵にしてみるのです。
ここにはショートケーキのお城があるから白の絵の具を使ってケーキを書き、こっちのロリポップ灯台はカラフルにしてあげて……。
これはとても良さそうです。
ただし、ここではいくつかの要素が犠牲になっていることに気がつくでしょう。まずイラストでは匂いや味わいは再現できません。それに姿形を描いたといっても、頭の中にあった三次元空間ではなく、二次元になっています。立体感に乏しいので、お菓子の王国に入り込むという体験はできなさそうです。
他の方法を試してみましょう。文字はどうでしょう。文字は事細かに説明できますし、必要であればその味わいや手触りも言葉によって詳しく描写することができます。しかしお気づきの通り、実際のイラストには表現力の点でかないません。
あるいは、音の力に頼って、お菓子の国をイメージした音楽を作曲したり、お菓子の国を歩いているときの足音を再現したりすることも面白いでしょうが、かなり多くの情報を落としてしまいます。
これらを組み合わせて、映像やゲーム作品にしてみると、かなりの部分がクリアできそうですが、それでも完全には形にすることができない。
現在、人類の技術はどんどん進歩して、4DやVRなど、人間の感性を再現できる領域が増えていますが、その技術の制約の中で再現された世界であるという意味では、さきほど述べたような、イラストや文字といった個別の方法と大きく変わりません。
まとめると、僕らの頭の中の妄想は無限大でも、再現するにあたっては、その再現方法の枠組みに制限されてしまう。自由な頭の中と、制約にまみれた現実との間には、大きな垣根があるわけです。
制限は悪いことなのか?〜数字の例〜
このように書くと、妄想は無限大なのに、制限のせいで不自由だ! と思う方もいるかもしれません。それは確かにその通りなのですが、妄想を妄想のままアウトプットする方法がない以上は、その制限の枠内でやるしかない。いや、どうせ制限があるなら、それをデメリットと捉えるのではなく、むしろ制限を有効活用する方法を考えてみるのはどうでしょうか。
その参考としてある事例を挙げてみます。数字です。
僕らは数字を数える際に、基本的に10進数を用いています。10進数というのは、簡単に言えば、10まで数えると桁が上がるという数え方のルールのこと。
と言っても、10進数を知らない人からすると何のこっちゃだと思うので、詳しく説明します。ちょっとややこしいですが、ちゃんとわからなくても大丈夫なので気楽に聞いてください。
僕らは数字を数える際に、
0,1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11……
という風に数えますね。
9から10に行くとき、桁が増えます。しかし、世の中にはそんな風に10を基本としない数字の表現方法があるのです。
例えば、2進数。2進数はこんな風に数えます。
0,1,10,11,100,101,110,111,1000,1001……
順番に見ていくと、0の次は1になります。(ここは10進数と同じです。)
問題は次です。その次にまた1増えると、10進数なら2になるところですが、2進数では2まで数えると桁があがるので、10になります。そのようにして次は11。また1増えると桁があがって100。という具合。これが2進数です。
以上が数字の数え方の話でしたが、ここまでの話がよくわからない! という人、大丈夫です。
数の数え方は、僕らが普段使っている10を基本とした数え方以外にも存在する、ということを理解してもらえれば構いません。
それを踏まえて、本題に話を進めます。
色々な数の数え方があるのに、なぜ僕らは10進数を使っているのでしょうか?
ここが大事なところです。
僕らは幼い頃から、10進数という数え方を当たり前のものとして使っていて、なんとなくそれしかないと思うくらいに慣れているのです。しかし、世の中にはこれ以外にも数え方がある。
例えば、長さや重さの計測方法は、メートルやキロ、ヤードやポンドなど、国や地域によって様々です。数もそのようになってもおかしくなかったし、実際、人類の歴史を振り返ると、色々な数え方を試していた記録が残っています。
しかし、現在ではほとんどの国が10進数を用いている。それはなぜか。
数学者の森田真生によれば、それは人間の指が十本だから、だそうです。(『計算する生命』新潮社、2021年)
え、そんな理由なの? と思われた人もいるかもしれません。
その疑問を解決するために「妄想」してみましょう、まだ数字が生まれていない世界を。
あなたがいるのは遥か昔。まだ人類は数字を持っていません。
あなたはある日、狩りに出かけました。その日はツイていて、たくさんの獣を獲ることができました。ちょうどその帰り道に、海の方から漁師の友人がやってきます。彼もたくさんの魚を釣れたらしく、ニコニコしています。
仲良く挨拶をかわしたところ、せっかくだから獲れた魚と獣を交換しないかと提案されます。あなたは喜んでOKします。
しかし数はありません。そのため、「じゃあ三匹ずつ交換しようか?」みたいな数字を用いたスマートな取引は不可能なのです。
ではどうするかと言えば、一匹ずつ(一匹ずつという言葉もないのですが)渡し合うのが確実でしょう。
そうすれば間違いがない。しかし、それを数えないといけません。しかし数字が存在しないので、数字を地面に書き込んだりすることはできない。
身近に、なにか手頃なものはないか。
ありました。指です。
よく見たら、指は一本ずつ折り曲げられるではありませんか。なんと便利! そこで一匹ずつ授受が済んだら指を折る。そして満足のいく本数だけ指を折ったらそれで終わりです。
指を丁寧に使えば、数字がなくても取引ができました。めでたし。
今のはちょっと極端な妄想でしたが、数にまつわる研究によれば、まず以上のように数を示すために指や石を用いていたようです。要は、物の個数を示すための印のようなもの。それに、数字という記号を当てはめていくことで、数は洗練されていったのではないかと考察されています。
つまり、人はもともと数という概念を持っていたのではなく、長い歴史の中で徐々に発明していった。そしてそのときにいつでもどこでも使える、便利な指を一つの道具として用いた。だから、数字は10を基調にしているのではないか。
実際、digitという英単語は、「指」という意味と「数字」という意味の両方を持っています。これは偶然ではないでしょう。
ずいぶんと長く数字の話をしてきたので、こいつはいったいどこへ向かいたいんだと訝しくなってきた頃でしょう。お待たせしました。
まとめておきます。さきほどの数字の例は、人間の頭の中にある数という概念を、現実のものにするために指という手段を用いた。その際に指がたまたま10本だったから、数は10を基本とするようになった。
僕らが日常的に用いている10進数という数え方は、実はそんな単純な事情から生まれたようなのです。
でもそのおかげで、今でも子供は数を数えるときに指を折り曲げて、徐々に数字に馴染んでいくことができます。もし、ずっと頭の中だけで数字をいじっていたら、こんなに数学は高度な発展を遂げなかったはずです。指という媒介を用いることで、数に形を与えることができたし、人間にとって馴染みやすい概念になった。
数という妄想を具現化する際に、指という媒介の特性を活かしたからこそ、数は便利に、使いやすいものになった。
つまり、頭の中にあるもの(数や妄想)を現実のものにするときは、その手段の特性に多かれ少なかれ影響を受けるということです。だったら、その特性を存分に活かしたほうがいい。もっと根本的なことを言えば、自分が用いようとしている手段が、どんな特性を持っているのか自覚しておくべきなのです。
バグで攻略するゲーム『BearRunner Any% RTA』
特性を考えると、妄想を現実化する際にもっと面白くなる。そう感じたのは、先日「art bit展」というインディーゲームの祭典に行ったときのことです。
インディーゲームとは、大きな会社ではなく、個人や小さな集団で作るゲームのこと。大規模な予算がかけられない分、独自の発想や小回りが利くことから、独創的なゲームが生まれやすくなっています。
いまゲームはどんどん予算も人員も大規模化していってるため、挑戦的で独創的なゲーム作りが難しくなっています。失敗できませんからね。するとどのゲームも似たようなものになったり、どこか守りに入ったものが多くなってしまいます。しかしインディーゲームの場合は大きな予算もかけていないし、そもそも利益を重視していない場合すらあるので、クリエイターがやりたいことを思う存分やることができる。まさに妄想がそのまま形になるようなものです。
art bit展には、まさに妄想が遺憾無く発揮されたような作品の数々が並んでいました。
中でも面白かったのは、しゅんてさんという方による『BearRunner Any% RTA』という作品。このゲームはファミコン(※1983年に任天堂から発売された家庭用ゲーム機。ゲームカセットを本体に差し込むことで、ゲームを遊ぶことができる)をバグらせることで、攻略するという一風変わったもの。
最近のゲームはディスクやデータがほとんどなので、馴染みが薄い方も多いかもしれませんが、少し前までゲームと言えば、ゲームカセットでした。長方形のソフトを本体にぐいっと差し込み、スイッチを入れるとゲームが起動します。しかし、このカセットが厄介かつデリケートな代物で、少しでも振動を与えるとバグってしまうのです。
この『BearRunner Any% RTA』はそんなファミコンカセットのデメリットを逆手にとって、ソフトを叩いたり、いじったりして、敢えてバグらせることでゲームを攻略することを目的としています。
電源を入れると、オーソドックスなアクションゲームが始まるのですが、そのままではただ右に進んでいくだけ。そこでカセットをいじってバグらせることで、キャラクターがワープしたり、敵を避けたりすることができるのです。
普通だったら絶対に起こしたくないバグを、積極的に起こすことでゲームを攻略するという、反転した背徳感というか、お得感というか。その感覚はそれまで味わったことのない不思議なものでした。
ここまで読んでもらうとわかる通り、この発想はゲームという手段なくしては生まれないものです。カセットを動かすとバグるというのは古いゲーム特有の現象で、これを無から発想するのは不可能です。カセットゲームが持つ特性を存分に活かして、独自の妄想を発展させた例と言えるのではないでしょうか。
「AUDIO GAME CENTER」の試み
こうやって積極的に、媒介の特性を活かす場合もあれば、反対にそれを「引き算」していくのもまた面白いものです。
その好例が「AUDIO GAME CENTER」と呼ばれるサイトで公開されているオーディオゲーム。オーディオゲームとは音を軸にして遊ぶゲームのことです。
そのように聞くと、音ゲーと呼ばれる音楽ゲームを思い浮かべる方がいるかもしれません。確かに「太鼓の達人」や「beatmania」、「ラブライブ!」といったゲームは、音楽に合わせてリズムよくボタンを押すという意味では、音を用いたゲームです。
しかし「AUDIO GAME CENTER」が制作しているゲームは、音を頼りに遊ぶゲームなのです。例えば「モスキートが来る(モスクル)」というゲームがあります。プレイヤーはヘッドホンをつけ、簡単なコントローラーを渡されます。ヘッドホンからは蚊が迫ってくる音が聞こえてきます。そこで、その音を頼りにして、蚊のいると思う方向にコントローラー(=殺虫剤)を噴射するというもの。制限時間が切れるか、殺虫剤の中身が切れるとゲームオーバーで、それまでに何匹の蚊を殺せるかを競います。
これらのゲームは様々な音が持つ情報や特徴そのものが遊びになっています。ただ蚊を殺すだけなら、日常生活でもいくらでも起きうるシチュエーションですが、音だけに集中して、音だけを頼りに蚊の居場所を特定するとなると、蚊の羽音や風など、色々なことに気を配る必要が生じます。つまり、ただ映像がなくなったわけではなく、むしろ映像がなくなったことで、音が持つ細かいニュアンスや情報を積極的に遊びに用いることができているわけです。
視覚情報がほとんど必要ないので、目が不自由な方でも簡単に遊ぶことができますし、むしろ彼らの方が上手かもしれません。
何かを無くすことは引き算なのか
今、目が不自由な人の方が得意かもしれないと言いました。そのことで思い出すのは、美学者の伊藤亜紗さんという方が、目の見えない方々にインタビューをした『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という本です。
目の見えない方々がどうやって世界を認識しているのかについて、伊藤さんは丁寧なインタビューによって迫ろうとします。その中で面白かったのは、目が見えないからといって、目が見える人に比べて、空間把握能力が劣っているわけではない、ということです。
どういうことか。伊藤さんが全盲の方と、ある坂道を歩いていたとき、その方は「この辺は山ですね」と言った。ぱっと見はただの坂道ですが、確かにその一帯は山になっているそうなのです。目が見えると、坂道という情報に引きずられて、その一帯がどんな構造かに気を配ることはありません。しかし、目の見えない方は道という情報に縛られないため、一帯を俯瞰的に捉えることができたのです。
そのことを伊藤さんはこんなふうにまとめています。
見えない人が見える人よりも空間を大きく俯瞰的にとらえている場合がある、ということでした。普通に考えると、見える人の方が「見通す」ことができるので、遠くまで空間をとらえていそうです。しかし、そのことによってかえって「道」にしばられてしまう。だからかえって見えない人の方が、目が見通すことのできる範囲を越えて、大きく空間をとらえることができる。視野を持たないゆえに視野が狭くならない。とんちみたいですが、私たちの先入観を裏切る面白い経験です。
このエピソードを読んだときに感じたのは、なにかができないこと、なにかの能力を持っていないことは、ただの引き算ではないということです。
もちろん、それによって障害を持っていても別に気にすることがないとか、全く同じ扱いでいいとか、そういう話をしたいのではありません。普段当たり前のように持っている常識や感覚、知識などを無くしてみるとどうなるのか。それはただの引き算ではなくて、むしろ全く新しい世界が開けるかもしれないということです。
さきほどの「AUDIO GAME CENTER」の例に戻ると、ゲームと言えば普通は映像と音がセットになっているものを想像しがちです。ではいざそこから映像を無くしてみると、ただ音だけのゲームになるかと言えばそうではありません。むしろ音の存在感がぐんぐん増してくる。(改行)
妄想というと、「もし◯◯があったら」とか「もしも◯◯だったら」というように、存在を前提にしたものを考えがちですが、今あるものをあえて引き算してみることで、思わぬ場所に僕たちを連れていってくれるかもしれないのです。
一番やりたいことをブラさない
妄想を現実化する手段としてゲームを挙げて、面白い試みをしているゲームをいくつか挙げてみました。
この例を見て、自分も妄想を形にしてみたい! と思ってくれたら、とても嬉しい話ですが、実際に行動に移すのははなかなか難しいものです。そこで最後に、妄想を現実にするための基本のキを解説させてください。
それはずばり「一番やりたいことをブラさないこと」です!
どういうことか。
あなたがある妄想を現実にしようとすると、様々な制約が襲いかかってきます。するとなんとか現実のものとするために、妄想のほうを調整する必要に迫られます。
もちろん、そんなものをつっぱねて理想のまま行くんだ! というのもかっこいいのですが、さきほど見たように現実の世界には現実のルールがあります。ある程度の妥協は必要です。
しかし、妥協に妥協を重ねていては、気がついた頃にはあなたの妄想が跡形もなくなってしまっているかもしれません。それではもったいない。
ではどうするべきか。そこで「一番やりたいことをブラさないこと」という基本の出番です。あなたが何かを妄想したら、その妄想の中で一番やりたいことを言語化してみましょう。
この妄想の中で、この要素だけは絶対に譲れない! これがこの妄想の核なんだ! というもの。それを言葉にしたら、それだけは譲らないこと。そして、その一番やりたいことを実現するために、どうすればいいかを順番に考えていくのです。
またまたゲームを例にしてみます。
どんなゲームにも基本となる「コンセプト」というものが存在しています。このゲームはこんな風にしたい! という、まさに一番やりたいことです。
例えば「ぷよぷよ」なら「テトリスのような落ち物パズルを、女性にも人気が出るよう作りたい。」(https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/609/2609295/)、「大乱闘スマッシュブラザーズ」なら「格ゲーに、差し合いやアドリブの要素をもっと入れたい」(https://youtu.be/uHJpaYpPTHg)、「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」なら、「広いフィールドでユーザーが自由に遊べるようにする」(https://www.famitsu.com/news/201703/02128158.html)など。
どのゲームでも、一番やりたいことを軸に据えて、それを実現するためにその他のシステムを整えています。
もちろん、必要に応じてその一番やりたいことを変えるのも大事です。「天穂のサクナヒメ」というゲームの開発秘話では、次のようなエピソードが語られています。
3Dで和風のゲームを作ったら独自性が得られるのではないか。
制作していくうちに、既存の作品がたくさんあり、村づくりは求められる水準も高く、やりたいこととも違うと感じ始めたため、稲作一本に絞るということになりました。
(https://jp.ign.com/tensui-no-sakunahime/47167/interview/)
やりたいことを定めたけど、そのやりたいことが大きすぎた。ここでそのまま突っ走るのも一つの手だったのかもしれませんが、開発者はその中で最もユニークな部分に絞るという選択肢をとりました。結果、大成功となりました。
まとめます。あなたが妄想を現実にしたい場合、その妄想の一番大事なところはどこか、それを洗い出します。それが見つかったら、その一番大事な点を活かすために、その周辺の要素を整備していく。そうして徐々に妄想は現実になっていくはずです。(もちろん、一番大事な要素があまりに巨大で実現不可能だと分かれば、そのときは潔く仕切り直すのも利口です。)
妄想と現実
ここまで、ゲームを中心に、妄想を現実にする方法を語ってきました。様々な話をしましたが、首尾一貫して言いたかったのは、妄想なくして人類なしということ。妄想があったからこそ、人類は文化や文明を発展させることができた。妄想にはすごいパワーがあるのです。
そして、今の時代、僕たちには妄想を形にするとても便利な手段が豊富にある。昔ながらの文学、美術、音楽から、新しいところならVRやゲームなど。見方を変えれば、起業やサークル活動だって、妄想の実現手段といえます。実際に自分の頭の中の構想を実現するために、人を組織するわけですから。
これだけ多種多様に、自分の妄想を形にすることができて、人様の妄想を覗くことができるなんて、なんと楽しいことでしょうか。
ぜひ色んな人の妄想を見て、そしてあなたの妄想も形にしてみてください。それが現実世界を少しだけでも変えるかもしれません。
……と、ここまで妄想と現実の交差について述べてきたのですが、最後に反対のことも言っておきます。ずばり、妄想は現実から逃げられる数少ない手段であるということ。
僕たちがこの世界から安全に逃れる方法は、残念ながらそう多くはありません。どんなに苦しくても、明日はやってくるし、お腹は空くし、学校や会社に行く必要も出てくる。将来の不安もある。現実とは僕らにプレッシャーを与えてくる空間です。
そんな窮屈な世界において、この世のことなど一切気にかけず、ただ利己的に別世界へと飛翔できる稀有な力、それこそが妄想です。だから、もしこの世が嫌で嫌で仕方なく、自分だけの理想郷を作りたいなら、この世から離れるために妄想の力を借りるのもおすすめです。それは恥ずかしいことではありません。
戦争において、苛烈な攻撃から身を守るためにシェルターに避難することは、全く情けないことではありません。安全に身を隠し、情勢が落ち着いたら、外に出ればいい。そのとき、反撃をするなり、大地を耕すなり、あなたにできることをすればいい。
喩えるなら、妄想とは心のシェルターになりえます。
この文章では、現実を変えるための妄想についてばかり話してきましたが、現実から避難するためにも妄想は役立つ。そのことを忘れず、自分の状況に応じて、妄想を存分に活用してみてください。
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