妄想と聞いて私がまず考えたのは、頭の中で漠然と思い描いている猟師としての目標や理想でした。だから、今から私が綴るのは、私のいままでの5年間の猟師経験を踏まえた、これから先の脳内シュミレーションのようなもの。「猟のことか、自分の生活とは関係ないしな……」と構えて見ずに、ひょんなことから北海道に移住した人のドキュメンタリーを覗くくらいラフな感じで読んでもらえたら幸いです。それでありながら、読んだあとはこの人の妄想をこれからも見てみたい、どこかで参加してみたいなって思ってもらえたら幸いです。
「猟師」というワードを聞くと、迷彩柄の服を着たおじいさんが銃で動物を仕留める場面を想像して、怖い印象を受ける人が多いかもしれません。しかし、猟師は自分で手を施すからこそ命の重みや生きることの本質を知る思慮深い人達でもあります。時代は変わり、平成から令和へ。この時代を生きるこれからの猟師達は、環境や仕組みの変化に日々直面していて、猟師の在り方は見つめ直されつつあります。少しずつ新しくなっていく令和の狩猟は、これから世間からもっと注目を集めるようになるでしょう。
そもそも27歳で猟師になった私がいるように、若い猟師も少しずつ増えてきています。そして、ジビエを食べる文化もだんだんと世間に浸透し、国内の鹿肉の流通も増え、ジビエを取り扱うお店も増えてきた印象です。いままでは牛や豚や鶏といった家畜の肉以外を食べるという選択肢は馴染みのないものでしたが、最近は猟師以外でも野生の肉を食べる選択肢が増えました。猟師ではない一般の人達がジビエを食べることで、「誰かが仕留めて捌いてくれたんだな」、「命をいただいているんだな」と、改めて食の背景を考えるきっかけになっているように思います。だから最近は、猟師と関わることで、自然と食育に繋がっているのかなと考えるようになりました。“猟師”というワードを聞くだけだとちょっと自分達の生活からは遠い存在に感じるかもしれませんが、“食育の基礎”と考えると、より身近に感じてもらえるのではないでしょうか。食べることは老若男女に共通していることなので、狩猟もそれくらい身近な存在になってくれたらいいなと思っています。
「今日は鹿の捌き方を教わりに行こうよ」と料理教室に通う感覚で鹿を捌きにいく社会人。「しょうがないな、また解体?手伝うよー」と家の手伝いで鹿の血抜きをする子供。おじいさんが獲ってきた鹿の皮を鞣(なめ)すおばあちゃん。お父さんの狩猟についていく猟師になりたい高校生。老若男女が日常的に狩猟と関わることって、日本だったら縄文時代くらいでは珍しくなかったのかもしれないけど、現代ではその光景をあまり見かけなくなりました。
海外にいくと、鶏肉の販売と書いてあるのに生きている鳥をそのまま販売していたり、肉屋の入り口には動物の頭がぶら下げられていたりと、生々しい光景が広がり、もう少し「食材」と「食材になる前の生き物」が紐づいていると感じる場面が多いです。でも、日本だといろんなコンプライアンスが厳しいことも相まって、そもそも生き物が食材になる瞬間を知れる機会が希少です。スーパーやコンビニに行ったら、綺麗に加工された肉や魚や野菜、食欲がそそられる惣菜や冷凍食品が陳列されています。店に並べられるまでの苦労が良くも悪くも綺麗さっぱりと消えていて、これらが命だったのかどうかも分かりません。魚は切り身で泳いでいると思っている子供がいるのも、この環境下だったらしょうがないのかもしれません。
せっかく「狩猟」という文化があり、現在から過去に至るまで関係をもっている鹿や猪といった野生動物がいるんだから、それを活かすに越した事はありません。いままでの狩猟の世界は閉鎖的であまり発信されてこなくて、身近に感じる機会があまりありませんでしたが、これからの狩猟は知りたい人に対してはもっとオープンでもいいのではないでしょうか。狩猟で培った知恵や技術を欲する人がいたときに、ちゃんとそれを提供できる世間の流れがあったらいいなと思います。そんな流れをつくるにはまず、狩猟を身近に感じてもらうためのきっかけが必要です。
とはいえ、実際に狩猟について行くのは安全面や生活スタイルを考慮するとなかなか難しかったり、一度にたくさんの人に体験してもらうことができません。そこで、私は最近猟に行ってみたい人や狩猟を知りたい人に対して「鹿の精肉体験」を行い、猟の一端に触れてもらう機会を設けています。下は小学2年生から上は60歳くらいまで幅広い年齢層で行っていますが、なかでも学生達の反応が抜群です。「鹿の精肉体験」では、今から捌く鹿がどうやって獲れたのかをお伝えし、鹿のプロフィールを渡します。そのあとは、どうやったら美味しい肉になるのかとか気さくに話しながら、大体4人1グループで鹿の腿や前足やアバラなどいろんな部位を捌いていきます。はじめはみんな恐る恐る捌きはじめるのですが、だんだんとコツを掴んで、切り方に個性が出てくるくらい夢中になっていきます。そして、最後にアンケートを取ると、
「捌くなんてはじめは無理かなと思ったけど、いざやってみると思ったよりもグロいとか怖いとか思いませんでした。予想以上に集中して取り組んでしまいました」とか「自分が捌いたお肉がだんだんと美味しそうに思えてきて後半からこの肉を食べてみたいという愛着が生まれました」とか「骨や関節の質感、肉の匂いなど、体験でしか分からないことが知れてよかったです。一度だけではなく定期的にやってみたいと思いました」とか、いろんな意見をもらいます。なかでも、「ここまで鹿を運ぶことも大変だったんだろうなと思いました、ありがとうございました」とか「猟師さんがどんな思いで日頃鹿を撃って、どのように過ごしているのか聞くことができて少し身近に感じることができました」とか、猟師をしている人の気持ちに寄り添う意見をもらえることがなにより嬉しいです。
こうやって実際に捌いてみたり、山に入ったり、鹿を運んだり、猟師の行う行動に少しでも関わりをもってもらうことで、猟師と猟師でない人の隔たりが薄れ、どんどん狩猟や猟師が身近な存在になっていっていくのではないかと思っています。そうやって、徐々に猟師といろんな人が関わりを持てるように裾野を広げて、様々な知見をかき混ぜることで、狩猟という文化や猟師という職業がもっとオープンに認識され、世間に認知してもらえたら嬉しいです。
狩猟は義務教育の必修科目に。
その一歩として、「狩猟」とか「山学」とか、そんな科目が教育のカリキュラムとして追加されたら面白いと思いませんか? 子供たちが食育を学ぶためにはうってつけだと思います。授業で週一回程度、山や川を定期的に訪れて、動物の世界の四季折々を体感する。きのこが生えてきたり、動物の毛の色が変わったり、鳴き声が変化したり、いろんな変化を目の当たりにするでしょう。それを人間目線で咀嚼してみたり、ときには動物目線で考えてみたり。教室では生まれなかったコミュニケーションや会話、知識も疑問も増えてくるはずです。「正解」を覚えるのではなく、「正解」はなにかを考えます。教室に比べたら山は危険がいっぱいかもしれないけど、それもまたリアルですよね。自然と共存するためにはまず自然に触れてみることがいいと思います。また、土いじりをするとセロトニンを増やすバクテリアを吸い込み、太陽に当たるとセロトニンが分泌されるといわれています。それが本当なら、不安な気持ちを抑制したり、やる気が漲ってくるはず。自然と触れ合うことで心が元気になったり、意外と他の教科も点数が伸びたり、いろんなプラスがありそうです。
私が住んでいる北海道では、地域と学校の連携を強化することを目的とした「地域探求」というクラブ活動や授業があります。私も地域探求の理念には共感しており、できる限り積極的に携わっています。学生達から「狩猟のことが知りたい」とか、「実際に鹿を捌いてみたい」などと、先生を通して学生からの要望が送られてくるので、その要求に沿って体験を提供しています。熊の脚を捌いてみたり、鹿の角を指輪やネックレスといったアクセサリーに加工してみたり。そのほかにも、鹿角を探してみたり、鹿の毛を筆にして絵を描いてみたり、美味しいレシピを考えてみたり、やってみたいと言われる体験を提供しています。体験そのものも大切ですが、その体験中の素朴な会話の中で生まれる「なんで?」という疑問がとても大切だと思っています。「えー、なんで鹿が増えているんですか?」とか「どうして駆除された鹿があまり市場に出回らないんですか?」とか。メディアでは、分かりやすい言葉で「~だからです」と断定することが多いですが、自然にまつわることの正解なんて、そのときどきで変わっていくものも多いし、決して分かりやすく説明できるものはないはずです。だから、ただ答えを聞いて納得するんじゃなくて、体験を通して一緒に答えを模索できるのが、この「地域探求」の良さなんだと思います。「地域探求」は学生にとっても大人にとっても、身近な環境について改めて考えられるいい機会だなと感じています。
現状、私が住んでいる町の人口は予想していたよりも速いペースで減少しており、すでに6000人を切っています。高校生の数は100人以下でとても少なめ。でも、とってもいい子たちがたくさんいます。この「地域探求」を通して、高校生との関わりが増え、どこか親心のような気持ちが私の中に芽生えるようになりました。町には高校までしかないので、大学や専門学校に進学するとなると大体の子が町を離れることになります。町を離れたときに、自分が住んでいた町が魅力的な場所だったなぁという思い出が頭に浮かんでくれたらいいなと思っています。
「鹿がそこら中にたくさんいて、狩猟が盛んで、鹿と密接な町だったよ。よく鹿肉を料理にして振舞ってくれてる女猟師さんがいたんだけど、あの人がつくる鹿肉のローストおいしかったなあ」なんて、地域探求のときの体験が記憶に残ってエピソードのひとつになってくれたら。そのあとUターンして、いずれ同じ町で猟師になったりすることもあるのかな? そこから一緒に狩猟したり、解体施設を運営したりなんてこともあるのかな? そんなことになったらドラマチックですね。兎にも角にも、日本の教育で狩猟を取り入れることがメジャーになってくれたら面白いので、ぜひ検討してもらいたいものです。
猟師にならなくても猟師の役に立てる
そんなふうに、地域や文化にとって狩猟や猟師が身近な存在になって、鹿と関わる体験が心に残る思い出となり、いずれ猟師になりたいと思う若者がでてきてくれたら嬉しいです。現に何度もそんなことがありましたが、「猟師ってかっこいいですよね!憧れています!絶対に猟師になりたいと思います!」と目をキラキラさせて元気に言われると、嬉しい反面、昔の自分を見ているようで焦らずにゆっくり考えてほしいなとも思ってしまいます。猟師になるには、狩猟免許と銃刀法(銃を使用して猟をしたい場合)を取得するわけですが、この免許でできることって、増えているとされる鹿や熊、サルといった動物の命を奪うことなんです。私は動物が大好きだし、最近は「鹿は増えすぎていて、駆除しないといけないもの」という意見にも疑問を抱いているので、正直あまり撃ちたくありません。撃つと毎回悲しい気持ちで夢にまで出てきます。こんな気持ちなので、猟師に向いてないなと思うことも多いし、その迷いが出るからか撃ってもなかなか当たりません。最近では、私が撃つよりも、周りの猟師さんたちが撃った鹿を回収したり、いかに廃棄せずに活用できるか考える方が今は大事なのではと考えたりもします。それでも猟師を続けるのには、続けないと分からないことがあるし、自分で鹿を獲って食べたいし、猟師としての発言権を失いたくないからです。
猟師=撃つ人だけが増えても、駆除数が増えるだけで撃った獲物の活用までこぎつけられません。それを活用するためには、猟師の周りにあるさまざまな職業の専門的な知識や経験がが必要です。でも、今は猟師だけに興味関心が集まっていて、精肉や鞣し、剥製や林業など、狩猟という行為の前後にある様々な職業にまではその興味関心が広まっていません。特に剥製師は継ぎ手不足が深刻で、担い手が減っているそうです。このまま剝製をつくれる人が途絶えてしまったら、新規の剥製をつくることも、剥製の修理をすることもできなくなってしまいます。だからむしろ、日本の文化や狩猟の持続性を守るために、猟師ではなく剥製師になるという選択があってもいいのではないでしょうか。そんな風に、狩猟のまわりにある職業で猟師を応援できることも覚えておいてほしいなと思います。
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