絵描きとして活動している筆者は、日常に潜むこうした何気ない既視感や、ついつい無視してしまうような感覚に着目して、作品を制作しています。過ぎ去った一瞬の感覚や情景を作品に繋ぎとめて、また取り出せるように保存する作業は一見すると特殊な技術が必要なように思えますが、これは何も絵が描けなければできないことではありません。
小学校の宿題で絵日記があったと思いますが、自分には絵のセンスがないなあと思っても、あったことを書きとめることは出来たでしょうし、文章にまとめるのが苦手な人も、家族や兄弟、友達に思ったことや今日あった出来事を話したことはあると思います。みんな気づいていないだけで、各々その人に合った形で、その人なりの感覚を得て生きている。
今回「妄想」というテーマを頂いたときにわたしが思い出したのは、フランスのことわざ”Un ange passe[1]“=「天使が通る」になぞらえてわたしが”天使”と呼んでいる、日常生活の中でふと感じるキャラクターの所在や、どぎまぎするような誰かの足跡のことでした。
この文章では、わたし自身の経験をベースに、生活の中の「妄想」について考えていこうと思います。
そもそも、「妄想」とは何だろう?
広辞苑第七版[2]で妄想という言葉の定義をひくと、以下のように書かれています。
①[仏](モウゾウとも)みだりなおもい。正しくない想念。徒然草「所願皆─なり」②[心]根拠のない主観的な想像や信念。統合失調症などの病的原因によって起こり、事実の経験や論理によっても容易に訂正されることがない。「誇大─」「被害─」「関係─」
①で触れられているように、もともと「妄想」という単語はサンスクリット語[vikalpa(ヴィカルパ)]の訳語で、正しくない推量的な判断、間違った判断を表します。日本語ではこれが転じて、②で書かれているように、統合失調症に代表されるような「ありえない考えを本気で信じこみ、おかしいと指摘されても、決してその考えを曲げない」という行動を指して使われています。
精神医学における統合失調症の症状における妄想はいくつかありますが、他人が自分を害しようとしていると思いこむ「被害妄想」や周囲の出来事を自分に関係づける「関係妄想」、さらに、何かに追われていると考える「追跡妄想」、誰かに見張られていると考える「注察妄想」、自分が特別な血筋だと思い込む「血統妄想」、家族が本当の家族ではないと思い込む「家族否認妄想」、自分を偉大な存在だと信じ込む「誇大妄想」、異性に愛されていると思い込む「恋愛妄想」などと、かなり幅広い種類が存在します。[3]
しかし、「関係妄想」や「誇大妄想」と言われてしまう感情は軽度ならば試験や目標に向けて努力するために良く働くこともあるでしょうし、「恋愛妄想」は誰しも恋愛初心者の頃はすぐに勘違いしてしまいかねません。また、宗教的な思想や文化的な背景という根拠があれば、おそらく統合失調症の一症状である「幻声」「幻覚[4]」によって作られた「神のお告げ」がひろく受け入れられるシチュエーションもあります。
同様に「妄想」として扱われるものとしては、陰謀論、マインドコントロール、カルト宗教などが挙げられます。統合失調症の妄想が病気の症状であるのに対し、これらの妄想は心理学的手法を用いて他者から誘導され、形成されるものですので、妄想というより「思い込み」「信仰」といったニュアンスの方が正確かもしれません。
なぜ今、「妄想する力」が必要なのか
禅の言葉に「莫妄想(まくもうぞう)」という言葉があります[5]。これは「妄想するな」という意で、仏教用語で「正しくない推量的な判断、間違った判断」とされているvikalpaを禁じる意、つまりはプラスマイナスに関わらず、「未来の解らないことをあれこれ考えることをやめろ」という教えになります。
これは先のことを深く考える時間があったら今を一生懸命に頑張ろう、という意味の単語でわたしも凄く好きなのですが、現代日本社会においてはすこし危うい発想だと思っています。
昭和から平成初期にかけてテレビ放送が覇権を得ていた頃は、国民的アイドル、国民的ヒットソングといった、本当に全人口の誰もが知るようなコンテンツが今とは比べ物にならないほどたくさん存在していました。エンターテインメントは人々の日常とはまったく別世界で、事務所やコネクションなど、莫大な資金源と環境、パイプがなければ世の中に知られる存在になることはきわめて困難でした。そのため、アンダーグラウンドな文化や子供が触れることがふさわしくないとされるコンテンツは資金力によってある程度選別され、ゾーニングされていました。もちろん、セクシー女優からタレントになった筆頭格の黒木香や、1960年代~80年代に放送されていたヌードダンサーが出演したり乳房露出がまかり通っていたりもした「お色気番組[6]」ジャンルなど、一部の例外は存在しますが、「お色気番組」が世間からの圧倒的非難で終了したように、ある程度は視聴者からの自浄作用が発生することでコンテンツの公共性が担保されていたように思えます。
一方で、テレビ的なお約束やパワハラ、過酷な労働環境など諸問題もあったと思いますが、国民的コンテンツがなくなり、誰もが別の方向を向いてエンターテインメントを享受している現代においては、我々は日々ある程度は好きなコンテンツを選択して受け取ることができます。かつてはテレビで見るのが当たり前だった有名芸能人、タレントも軒並みYouTubeをはじめるのが当たり前で、そこでは素人の作った動画も芸能界でずっと活動してきたタレントが出演する動画も同列のものとして我々は見ることができるのです。ひとつの絶対的な覇権というものが崩壊し、各々の世界で各々に向けられたサジェストの中で人気のコンテンツをある程度同列に受容する。こうした構造は、消費者側に高いリテラシーを要求します。
もうすこし具体的に考えてみましょう。
昨今は育児において赤ちゃんや幼児に動画サイトを与えることも珍しくありません。「シナぷしゅ」のように、赤ちゃんに見せることを想定して長尺で毎日動画投稿されているチャンネルもあります。それを受けてか、YouTubeには「子供向け動画」という、一部動画に一定の制限をかける機能が存在します。
ですが、最近は少し規制が厳しくなったとはいえ、同じYouTubeにはポルノすれすれの過激なサムネイルや内容の動画がたくさん投稿されており、制限を外せば誰でもそれを視聴できます。そこまで露骨なものではないとしても、反社会的な内容や夜の世界を描いたコンテンツはいままでテレビでは放送されてこなかったこともあって人気があります。『明日、私は誰かのカノジョ』『東京深夜少女』などが連載される「サイコミ」のような、アンダーグラウンドな内容に特化した漫画が多く掲載されるマンガアプリも人気があります。時を同じくして、地下アイドルカルチャーにおける「推し」文化が一般化したことで、高速で遷移するコメント欄の中で大量の金銭を投じてコメントを読んでもらう「Super Chat」をはじめとした投げ銭カルチャーも当たり前になりました。これも、YouTubeで頻繁に観測することができます。
しかし、推し文化の中で型にはまった応援をすることやコミュニティ内で競争を煽られ、それに応えていくというある種自傷的な趣味はあまり健全ではないし、長期的に続くモノではないと思います。実際、『ガチ恋粘着獣』『推しを愛する私たち~推し×ファン~アンソロジーコミック』など、ファン目線での醜い感情を扱った二次的な漫画も出現し、人気を集めていることから、実は少しずつ消費者の側も疲弊してきて、「推し活」ブームが終息に向かっているのではないかと感じています。
2022年の「推し活にかけるお金と節約に関する意識調査[7]」や2024年実施の「推し活に関する調査 2024年[8]」を見ると、高年齢層を中心に、近年は生活を優先しながら推し活を楽しんでいる人が多い。ですが、10代~20代では他の世代に比べて投じる金額が大きいのも特徴です。女児向け漫画雑誌「ちゃお」のWeb漫画サイトには「推し活」カテゴリの連載漫画が3本あったり、かつて歌舞伎町にいるホス狂の象徴であった「地雷系」ジャンルのファッションは流行しすぎて小学生の服装にまで降りてきています。つい先日も15歳に600万円を貢がせたホストが逮捕[9]されたニュースが世間を騒がせました。視聴者が好きなコンテンツを選択して楽しむ間口が広がり、それまで入ってこなかった面白いコンテンツが増える一方で、若年者にとってはアンダーグラウンドな世界への敷居が低くなってしまうことに繋がっているのではないか、とわたしは危惧しています。
一方で、年配の方への影響もあります。わたしの知人でも、親がインフルエンサー経由で偏った思想を持ちはじめて会話ができなくなった、陰謀論にハマってしまった、という話を聞いたことがあります。この激動の時代においては誰しも強烈なカリスマを求めているのでしょうが、より資本主義が強化され、倫理観が削がれたコンテンツも流入してしまうのが、テレビからYouTube時代へと変化したことの危うさに思えます。1995年に地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教の存在ですら、少しずつ世間に忘れ去られつつありますし、よりきちんと自分たちの頭で日々情報を精査し、考えていかなければならない時代が来ています。誰かを推すことは素晴らしいことですが、まず第一に自分の思想を言語化し、肯定して強化することで、はじめて他の人や物事について考えるスタートラインに立てるのではないでしょうか。
でも、ただでさえ学業や仕事で日々いっぱいいっぱいなのに、息抜きの場ですらつねに頭を働かせていなければならないのは疲れますよね。
資本主義が続く限りは、個々人の情報を分析し、パーソナリティや出生、状態に合ったマーケティングが進んでいくことは必至でしょう。それどころかジョージ・オーウェル『1984』や、アニメ『PSYCHO-PASS』で描かれているような管理された監視社会に向かっていく可能性すらあります。伊藤計劃『ハーモニー』で描かれているように、善性によって作られた社会が必ずしも皆の生きやすい社会になるとは限りません。
サジェストは私たちにたくさんの快楽と需要に合った刺激を与えてくれます。しかし、本当にそれだけでいいのでしょうか。自らのために「コンテンツをサジェストしてくれ」と望まなくても、みな平等にマーケティングされる側の人間であることを自覚すること。そして、与えられたものを自分の個性だと信じ込むのではなく、他者や社会に左右されることなく存在する確かなアイデンティティを形成することが重要だとわたしは考えます。
無意識は脳の9割を支配する
自分は別に盲目に毎日サジェストされたものを流し見しているわけではない、頭を使わないコンテンツが好きなのだ、という人もいるかもしれません。ではなぜ息抜きをしているときでさえ、確固たる自分を持っておくことが重要なのでしょうか。
精神学者にカール・ユングという人がいます。夢や神話を研究することによって人間の経験について知ろうとした人で、歴史は文明の中で展開された数々の出来事から構成される物語に過ぎないのに対し、夢や神話は人間の心が表に現れたものだと主張しました。
その中で彼は人の心の構造を「意識」「無意識」の2つの領域に分類することができると捉え、その2つの領域が対になることで人間は『心』のバランスを保つことができ、このバランスが崩れた際に、精神疾患を生じると考えました。
わたしは社会の善性が暴走、あるいは資本主義が加熱しすぎた場合、心理学や経済の視点から社会構造を理解することが、自らを守る最も堅実な方法だと考えています。しかし、この対処法が万人に適応できるものではないということも容易に想像がつきます。倫理的には良くないとされながらも、冷笑コンテンツが一定の支持を得てしまうように、誰もが善性に向かって努力できるわけではないですし、毎日の生活が辛くて、良くないとはわかっていても短絡的に他者を下げることで自分の劣等感を埋めようとしてしまう人もいます。知識を獲得することによって悪意のサジェストに対抗するためには心理的余裕が必要なのです。
そこで、誰にでも、どんな状態の人にでも可能な方法として、「無意識」を利用することがあるとわたしは考えました。
自分自身に対する前向きな錯覚を持つことは、個人と社会の両面で利点となります。(中略)動機づけられた推論のおかげで、私たちの心は不幸から自分の身を守ることができ、それとともに本来なら圧倒されかねない、人生で直面するいくつもの障害を克服する力を手にする[10]。
理論物理学者のレナード・ムロディナウは非現実的なまでの楽観主義を無意識によるものだと指摘しますが、大変な困難に直面した時、下手に思考を巡らせるよりも、迅速で効率的な無意識を強化することで解決に向かいやすくなることは往々にしてあります。
知識や推量によって自分の輪郭を明確にしなくとも、無意識の上で自らの存在意義を確立し、自我を強化していくこと。無意識の効用を理解し、資本主義や効率主義では埋もれてしまう真の自己実現を果たしていくことが望まれます。
大切なのは、”公共性のない”独自視点を持つこと
だれしも生活の中でこんなことやりたい、あんなことやりたいと思うことはあると思いますが、案外実行に移す人はいません。どんなに簡単そうに見えるアイデアでも、実行しようとすると案外金銭や工数などのコストがかかったり、面倒になってしまったりするからです。それに、実行しないで、心の中にとどめておいた方が良い「妄想」も沢山あります。
でも、たとえば社会的にふさわしくない空想や想像力であったとしても、わたしはそれを自分自身で頭ごなしに否定してしまうのは良くないと思います。わたしたちは社会的な生物で、行動する以外にも物語にしてみたり、書きとめてみたり、何か表現してみたりと、一人で出来る手段を沢山持っているからです。何かしらの方法で記録して、他者に共有さえしなければ、それはあなただけの、きわめて個人的な思考の記録になります。
わたしは、こういうものを、誰もができるようになればいいと思っています。人間の数だけ脳があるわけですから、だれしもその思想が偏るのは当たり前です。最初から社会に完全に適合して、最適化されている人などいません。誰からもいいねされないツイートだって本人にとっては価値ある思想だっただろうし、それが他者評価によって少しずつ歪められていくのは余りにも不健全ではないでしょうか。中島みゆきは『宙船』の歌詞で「その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけおまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな」と歌いましたが、何気なく使っているインターネットやSNSで自分の発信のすべてが他者からの評価に依存する構造は、「オールをまかせている」ように感じる時がしばしばあります。
そのときの自分のリアルな考えを、ポップでない、SNSでウケないというだけで捨ててしまうのはあまりにも勿体ない。世の中には全くバズらなくても、とんでもない高値が付けられている作品やお金を稼いでいる人間たちが存在します。勿論、バズがきっかけで注目され、ピックアップされる若手アーティストも昨今は多いですが、昨今の世の中はあまりにもその目先の一発勝負な賭けに期待しすぎに思えてなりません。
わたしは行き詰まって精神的に落ち込んだり、悩んでいる友人から相談を受けた時、よく日記を書くことをおすすめしています。もちろん、記録をつけられれば、文章である必要はまったくありません。ラッパーの友人は、硬い文章を書くことが苦手で、自分の思ったことや考えたことを書きとめておくためにラップのリリックを書いているそうです。毎日ドローイングを描いたり、音楽でスケッチをするという人もいます。大変な労力を要することでなければ、手段はなんでも大丈夫です。自分の一番楽な方法で、誰にも見せない、自分だけが価値判断をできる領域を確保することは、心理的な安全性を担保することに繋がるはずです。
1993年に行われたアンバディの心理実験によれば、人間は他人のネガティブな感情を受け取ると自律神経の働きが活発になることが知られています。これは敵と味方を瞬時に見分け、自らの身を守るために脳や体の仕組みが進化してきたことに由来しています。人付き合いやこと仕事においてはある程度TPOをわきまえて行動するように、インターネットというプライベート空間においても、ネガティブな感情は自分が思っている以上に大きく受け取られやすいので、不用意に怒りの感情を加速させるのはあまり健全ではありません。いくら多くの人から「いいね!」がついてもです。
「クシノテラス」という、広島県にあるアウトサイダー・アート専門のギャラリーがあります。こちらを運営するキュレーターの櫛野展正さんという方は、知的障害者福祉施設で介護福祉士として働きながら、16年間、障害者による芸術活動をサポートし、その後2016年にギャラリー兼オフィスとして「クシノテラス」を作りました[11]。
「アウトサイダー・アート」という言葉は1972年に[12]美術史家のロジャー・カーディナルが ”生の芸術” を意味するフランス語「アール・ブリュット」の英訳として提唱したもので、「正規の美術教育を受けていない人による芸術」「既存の美術潮流に影響されない表現」という意味を持つ単語です。しかしこと日本においては、椹木野衣が『アウトサイダー・アート入門』で指摘したように、「精神病者たちが超人的な持久力で延々と厭きず作り続けられるトンデモ美術[13]」と捉えられている側面も未だに少なくありません。
実際、櫛野さんの展覧会で紹介された方の中には清掃員など、様々なパーソナリティが存在し、感動するような独自性を持つ人たちがすごく普遍的に遍在していることに気づかされます。
でもいきなり独自性といっても自分には何もないよ、と思った人もいるかもしれません。
たとえばK-PopアイドルのNewJeansが牽引するy2kファッションがいま老若男女に支持されているのは、ティーンには新鮮に映る服装が、ある一定の年齢以上には懐かしく既視感を覚えるものだからだと思います。既視感という感覚はいつも、わたしたちが100%自分自身のものだと信じている好みや、良いと思う感情に作用しています。独自性は、何も特別な人間だけが持っているわけではありません。何かを好きという感情を選び取ることには意志が介在しますし、どちらがより好ましいという感覚も、半分は前述の既視感のように、社会に影響されていますが、残り半分はあなた自身のものです。世界82億人の人口のぶんだけ、それぞれの視点があり、生きているだけで独自性のある選択をし続けることで、日々社会が形成されているとも言えます。
あなたにとっては当たり前に思いつく「妄想」も、誰かにとってはいつでも尊敬に値する素晴らしい空想である可能性を秘めているのです。
「妄想」の実践――わたしの活動について
では、ここからは私の活動において実際に「妄想力」がどのように役に立ってきたかを話していこうと思います。
漫画『ディグインザディガー』 世の中に無かったことを形にする
2020年初頭、多くの人と同じようにわたしもコロナウイルスの流行によって仕事が減り、決まっていた音源リリースのスケジュールも白紙になってしまいました。大好きな音楽ライブも次々と中止になり、世の中の先が全く見えない中、同じようにライブの予定がなくなってしまい暇になった友人の栄免建設さんがSNSで何気なく話していた「こんな漫画があったらいいな」というアイデアに、冗談交じりに「実際にやってみたら?」と声をかけたのがきっかけで、エイプリルフール企画としてWeb漫画『ディグインザディガー』の企画を練りはじめます。
わたしも栄免さんも人をワクワクさせるアイデアを練るのが好きなエンターテイナー気質ということもあって話はトントン拍子に膨らみ、4/1にエイプリルフールを装って「本物の連載企画」を発表し、現X、当時はTwitterと呼ばれていたSNSのみで1年限定連載をやろう!ということになりました。当時わたしは半年前に漫画を描き始めたばかりで、漫画のことは何もわかりませんでしたが、「なんだか面白そう」という期待感だけを信じて、水面下で準備を進めました。
コロナで皆エンターテインメントに飢えていたこともあってか、漫画は音楽関係者を中心にシーンで話題になり、機材販売メーカーから特集番組も組んでいただきました。この作品をきっかけに人生で初めて商業漫画のオファーが来たり、昔から憧れていたDE DE MOUSEさんがゲストに参加してくれたり、多くの方がSNSで話題にしてくれました。しかし、漫画が予想以上に評価されればされるほど、なぜか、わたしの心は少しずつ擦り減っていきました。これは当時、自分の作る漫画の良さがまったく理解できず、「ほかに褒められることもないから」と自分の意志よりも周囲の期待に応えることを最優先していたからです。
イベント『自然の中で起きている美しい現象すべて』 誰かの一言を広げて具体化する作業
そんな中、新たな転機が訪れます。
展示活動の中で出会った友人・米澤柊とお茶していた時に、全アクトでライブペイントをメインに据えた音楽イベントがあったらいいのにね、という話が出ました。2人ともペインターであると同時にVJが出来ることもあって、イベントを一緒に企画しようということになりました。音楽イベントを組むのは初めてでしたが、懸命に作った企画書を見たライブハウスの皆さんや多くのアーティストに恵まれ、1回で終える予定だったイベントはナイトイベントや野外など形を変えて4回開催し、全て盛況に終わりました。半年以上お休みしている今でも、このイベントに憧れている方の話を聞いたり、褒めて頂けることも多いです。
いちお客さんとして足しげく音楽ライブに通った経験を活かして考えたアイデアや演出を、訪れた観客の皆さんが喜んでくれることはほんとうに嬉しくて、すごくやりがいを感じました。人生2回目の成功で、「わたしは他人の小さなひとことをまとめて企画書を書き、実際に実現させるのがとても得意なのではないか」ということに、少しずつ気づき始めました。
しかし一方で、わたしは不必要なのではないか、わたしが関わってしまったせいで、自然消滅していくはずだったアイデアや、世の中にまだ無い企画を実現してしまうことは、余計なお世話なのではないか、本当に良いことなのだろうかと日々悩みました。時を同じくして一部の人がわたしの存在を否定するような発言をするのを見て、心が折れてしまいました。一生懸命にお客さんや全体のことを考えて貢献することを第一に置いているつもりでも、こんなにも伝わらないのだろうか、と後ろ暗い気持ちになりました。
今となっては、外野から誰かに辛辣なことを言う人間は卑怯だし、まったく気にするに値しないことだとはっきりわかりますが、会社員として週5で働き、イラストレーターとしての個人活動もしながら、1年に大きなイベントを3回も開催していたことで、心身ともに限界を迎えていたのだと思います。演者の皆さんもお客さんも喜んでくれてるけど一旦しばらくイベントをお休みしよう、と主催2人で話し合って決めた打ち上げの夜に、イベントを手伝ってくれたサークルの後輩が、わたしに「もっと自分たちを信用して、頼ってほしい」と話し始めました。
「駒澤さんは責任感が強くて、なんでも一人で抱え込むことが良いと思っているけど、少なくともサークルの自分たちは仲間だと思っているから、多少無理なことだろうと何でも正直に話してほしい。休むときはしっかり休んでほしいし、頼ってくれないことの方が傷つきます」、というような内容だったと思いますが、構造的に上に立つ立場だからこそ俯瞰的に物事を考え全員の行動を予測して準備し回していくべきだと考えていたわたしには、寝耳に水でした。実際イベントの度にストレスで体調を崩してそれまで罹ったこともない病気になったり、腹痛で動けなくなったりしていました。わたし自身がわたしを酷使していたことが、一部の人から心無い言葉を言われたり、ストレスを感じやすくなっている原因になっていたのだと気づきました。でも人のために頑張ることは好きなので、疲れない程度にまた誰かの役に立てればいいな、と思いました。
この少し後から、イベントに出演してくださったずっと憧れていた大御所の皆さんからお仕事を頂いたり、直接激励の言葉をいただけたことで少しずつ自信がつき、自分を一番苦しめていたのは自分自身の不安に起因する強すぎる自己嫌悪だったのではないかと思いました。
レーベル『KAOMOZI』 自分だけの考え方を持つ勇気
KAOMOZIというレーベルは、わたしが初めてひとりきりで始めたプロジェクトです。
実はわたしは、元々あまり一人で人前に出るのが得意ではありません。友達や他人の良いところを見抜くのが誰よりも得意な一方で、学校でいじめに遭ったことがきっかけで自己肯定感がなくなってしまい、アイデアや意見はなるべく信用できる他人の一歩後ろから言うほうが、全体に意見が通りやすい、という虚妄にいつからか取りつかれていました。もちろんそれは、それこそ悪い思い込みでしかなく、自分自身が卑屈だからより意見の通りにくい状況を作り上げてしまったり、単純に努力が足りていないだけだったりするのですが、心の弱いわたしはとにかく自分のアイデアを発表するためには、わたし以外の素晴らしい他者が最終的なジャッジをくださねばならない、と本当に心の底から信じ込んでいたのです。
しかし、漫画やイベントの活動をしていくうちに、一歩後ろに下がって行動している自意識と裏腹に、わたしが余りにも指揮をとっていたり、口出しをしてしまうことが多いことに気が付きました。一緒にプロジェクトをやってきた友人とたびたび口論になるのは、わたし自身が「自分は一歩後ろに下がらなければいけない」と、勝手に自己否定をして、いらぬ我慢をしてしまっているからではないのか。世間の評価、家族からの言葉で一緒に制作をしている友人と毎日比較され、あまり好かれていないと感じるたびにわたしは劣等感でいっぱいになるのに、パフォーマンスとしては対等を演じなければいけないことに、心の底から疲れていました。でもレーベルは、今度こそ人の陰に隠れて動かすわけにはいかなかったのです。
というのも、このレーベルはわたしのDiscordサーバーで作業通話をしていた時に、悪ノリで募集したコンピレーションアルバムが、本当に集まってしまったことがきっかけで始めたものだったからです。後にBendcoreのキラーチューンとして話題を集めるねこみかん「化る低熱」をはじめ、素敵な楽曲が自分の知らないうちに自分のサーバーに集まっていました。絵描きが突然コンピを出すのも釈然としない、と悩んでいた時に、Yoshino Yoshikawaさんが「駒澤零の最近の活動は凄く初期のtomadを彷彿とさせるから、マルチネみたくレーベルをやってみたら?」と提案してくれたことがきっかけでした。
これもまた受動的な理由で始めることになったインターネットレーベルですが、2023年5月15日にレーベルのHP母体であるBandcampのデイリー記事「日本のレーベルの隠れた作品たち」の11レーベルの中に選出され、アメリカからのリスナー数が爆発的に増えます。特にトップ記事に掲載されたアルバム『魔法使いの弟子』を筆頭に、月の再生回数が平均の60倍に跳ね上がりました。Bandcampは元々アメリカのサービスということもあり、レーベル開始当初から耳の早い海外リスナーやレビュー記事を書いてくれる人はいましたが、日本国内でもこの記事をきっかけにレーベルを知ったという人に度々出会うくらいには自分の周りで読まれていて、まさに転換点と言える出来事だったと思います。
これは、私にとってかなり衝撃的でした。実はこの『魔法使いの弟子』というアルバムは、「あえて著作権がグレーなサンプリングを使ってGlitchの楽曲を作る」というコンセプトで作られたアルバムであったため、意図的にあまり積極的に宣伝をしていなかったのです。もっとポップでキャッチ―な作品も沢山ある中で、あえてその作品をフックアップしようという記者のdig力にも驚かされましたし、たとえこちらが積極的にアプローチしなくても、世の中に出ているものは常に衆目に晒されており、いつでも発見されうる可能性がある、というのを本当に実感したのです。
わたくしの音楽名義であるnemuigirlで作ったアルバムが音楽雑誌『MUSIC MAGAZINE』にレビュー掲載されたときも、同様の驚きと嬉しさを感じました。
わたしの家庭では沢山の習い事や勉強できる環境を整えてもらいましたが、母親がピアノレッスンにトラウマがあるせいか、幼少期全く興味のなかった音楽制作に大人になってから傾倒することへ異様に風当たりが強かったのです。それでも、音楽を作ることにどうしても憧れがあったので、下手の横好き、と自虐しつつも出来ないなりの努力を一生懸命続けていました。そんな私の作った音楽が、小さな欄とはいえ、レーベルの活動にまで触れられながらフィーチャーしていただいた。ちょうどポスト・コロナが収束し、各々の生活が変化していく中で、頓挫しそうになった企画をどうにかまとめあげてリリースした作品ということも相まって、わたしは諦めず続けることが大事なのだと、はじめて心の底から思いました。
もちろん、自分一人でプロジェクトを動かすのには、責任が生じます。辛いときも沢山ありますし、大きな仕事が突然来て、抱えきれないようなプレッシャーに苛まれる時もあります。
でも不思議なことに、どうしても困ったときにはいつも後輩や、インターネットで繋がっているだけのフォロワーなど、なぜか誰かしらが助けてくれました。昔は「一緒にやっているメンバーのファンだからこの人は良くしてくれるのかな」とすぐに卑屈になっていたのですが、自分ひとりでやるものが増えたことで、まっすぐ素直に厚意を受け取れるようになりました。これは少しずつですが、わたしの自信になっていきました。
思えばずっと苦しかったのは、自信のなさと、否定される恐怖があまりにも大きかったからだと思います。自分が好きなアーティストや作品の素晴らしさには常に太鼓判を押せるのに、素を出すと集団に否定されがちな自分自身というものが心の底から嫌いで、常に虚勢を張っていて、本当の自分を見られるのが怖くて仕方がなかった。でも、否定されて良いのです。あんなに国民的人気の星野源だって私の母は好きじゃないし、わたしが愛してやまないYMOにもアンチはいるのです。それは有名になったから否定的な人が増えたのではなくて、受け手の多寡に関わらず、最初から好き嫌いというものはある程度存在するのです。
変えられないものを嘆いても仕方がありません。無意味だとわかっているのに感傷に浸るのは悲しみの自己陶酔でしかない。とはいえ多くの人に意味がないと思われそうな自分自身を見つめ、認めて行動するのは勇気のいることだと思います。
サークルのOBの先輩に、ベネズエラのガイタ(Gaita)という音楽をずっと一人で調べて、まとめている人がいます。先輩からその話を聞いてジャンル名を検索したら、日本語で書かれているブログが彼のnote記事しかなくて驚愕しました。情報も殆どスペイン語で、使用する楽器が欲しくて現地から取り寄せるのにも一苦労しているのを見て、「この人はどうしてずっと一人で誰にも理解されない音楽を調べ、まとめ続けていられるのだろう」と思いました。
でも日々の生活の中で流行りを気にしながらコンテンツを制作し、皆に好かれるように作ったはずのものが誰からも認められない悔しさを何度も味わううちに、わたしは自分自身をまず満足させなければいけなかったということに気づいたのです。先輩が孤独な活動を続けていられるのは、誰に褒められるわけでなくても自分が本当に好きで、やりたいことをやり続けているからでした。そして本気で好きな人たちを応援しているレーベル活動が上手く行っているのも、他でもないこのわたし自身の作品への「好き」がダイレクトにリスナーの皆さんに伝わっているからではないでしょうか。
自分はレーベル運営において、アーティストたちの魅力や個性を引き出すことと同じくらい、自分自身が何が好きで、どんなものに憧れているか、ということを意識してブランディングをしています。今は他のことにおいてもそうです。他人と関わるということは、他人の言いなりになることではありません。だからといって論破のように相手を打ち負かした気になるのも良くありません。自分がどういう考えを持っているか知ること、相手の意見と同じくらい、自分の考えというものはきちんと素晴らしいものである、とまず自分自身が認めることで、はじめて全体の幸福に向かう、建設的なコミュニケーションが可能になるのです。
わたし自身が「本当に」好きなことをやろう
ここまで読んでくださった皆さんの中には、「でも、自分の好きなことは独自性もないし、お金になるわけでもない」と思った方もいらっしゃるかもしれません。
わたしもマネタイズが本当に苦手なので何も言えないのですが(笑)、独自性がないことも、お金にならないことも、まったく卑下する必要がない、という話をしたいと思います。
わたしは小さい頃からお絵描きと同じくらい、本を作る行為が好きでした。工作教室でA4用紙一枚から本を作る折り方を教わると、白紙のコピー用紙を手に入れるたびに本を作り、表紙など数ページ書き込んでは飽きて辞めていました。それは中学校に入ってからも変わらず、入部した文芸部でコピー本の作り方を教わったことをきっかけに、部活内で友達と合同誌を沢山作りました。中3になる頃には親友と兵庫と愛知の友達にそれぞれ声をかけて同人サークルを結成し、4人でお金を合わせてイラスト集を定期的に作り、即売会に出展するようになりました。とにかくお金がなかったので、無料ソフトを使ってデザインや入稿を繰り返すうちにすっかり上手くなり、2024年現在、その頃から作った冊子は全部で33冊になります。そんな本作りとデザインが好きな私ですが、出版社を目指して臨んだ就活では1社も受かりませんでした。出版業界は中途採用が多く、入社できても大変な業界だと聞いてはいましたが、それでもこの結果はかなり堪えました。
でも、本を作るのは好きだったので別にやめることもなく、詩集を出してみたり、台湾での展示に合わせてポートフォリオを作ってみたり。その場のノリで作りたい本を、即売会の日に合わせて作る、ということをなんとなく続けていただけです。なかでも思い入れ深いのは『透明塩味』という人生で初めて描いた漫画本です。それまでイラスト集しか作ってきたことのないわたしが売れ残り覚悟で出した短編でしたが、即売会参加史上過去最速で20部完売しました。この時に自分の実体験をベースにすれば、頑張れば漫画も描けるぞ! と体感したことが、『ディグインザディガー』の企画が立ち上がった時に苦手な漫画を継続して挑戦してみようと思えた理由でもありました。
あとはASMRという、ダミーヘッドマイクで眠くなる音や環境音を録音したコンテンツが好きなのですが、友人の変化龍・龍変化がASMRに関する論考集の第二弾を企画している、と知ったときに駄目元で「わたしはASMRが本当に好きなので、書けます! 書かせてください」と話したことがきっかけで、評論本『奇想同人音声評論誌 空耳2』にまだ誰もまとめていなかった、女性向けコンテンツの視点から見たASMRに関する批評を寄せ、多くの人から好意的な感想をいただきました。このように、自分の活動の役に立つなんて夢にも思っていない趣味でも、本気で好きを続けていれば何かしらの結果に結実することもあるのです。
独自性というのは、好きな物自体のことを言うのではありません。個々の人間存在それ自体が独自性なのです。そのものを好きな人は沢山いても、そのものが好きなあなたは一人しかいない。あなたにしか見えない視座で、あなたしか持っていないバックグラウンドで、あなたにしか描けないものを記録する。それはこの世に生を受けた以上各々が人生を使って意識的にでも、無意識的にでも果たしていくことだと思います。
それこそ、編集部の小阿瀬さんがこの本の執筆にわたしを推薦してくださったのは、2024年5月に刊行したポスト・長谷川白紙の音楽シーンの解説本「Bendcore GUIDE BOOK」という本がきっかけでした。これはレーベル活動を通して、10代~20代前半を中心に自分なりに萌芽しているように見えるシーンに対して、誰も言及せず、記録されている資料もないのが不思議で執筆を始めたものです。赤字でも良いから必要な人が閲覧できる形で資料を残したい、という強い意志だけで作られたこの本は、「まあ3部売れればいいな」というわたしの予想をはるかに超え2回も再販し、様々な人が手に取ってくれました。そもそも発行の時点で文学フリマのスペースに落選してしまったのにライターの伏見瞬さんがスペースを貸してくださったり、長谷川白紙さんの新譜リリースを記念したDOMMUNEの生放送でもimdkmさんが参考資料として活用してくださったりと、努力や姿勢をきちんと評価してくれる知人の存在に有難みを実感したプロダクトの一つでもあります。
自分のエゴで良かれと思って何かを作ることは、とても孤独です。続けている間は凄く葛藤があるだろうし、世の中に出してからも多くの場合その苦しみは継続します。でも、たとえどんなに誰にも見向きもされなくても、エゴイズムから何かを完成させた人は絶対に前進しています。短絡的に世間の顔色をうかがい続けたり、すぐに評価されることだけを是としていくのも楽しいですが、己の美学を、抱いた「妄想」をつらくても形にする行為は、きっとほかでもない自分という存在の輪郭を明確にし、人生を少し楽にしてくれるものだと思います。
わたしは今も精神的に強いわけではないですし、10代の頃などはインターネットを見て劣等感に苛まれては毎日死にたいと泣いていたものですが、少しずつ状況が好転してきたと感じたのは「他者から望まれる自分」を磨くことをやめ、ダサくても、気持ち悪いと罵られても構わないから、どうしても残しておきたい自分のエゴで出来た作品やプロダクトを少しずつ外にアウトプットし始めてからでした。否定される怖さに震えながら真摯に身体を晒し、作品を衆目のもとに晒すとき、嫌な批判が来るかもしれないし、逆に全く注目されなくて孤独に打ち震え落ち込むかもしれない。でも必ず前には進んでいるのです。自分にしか見えない視座を、今のわたししか見えない意見や感情を何かしらの形で残しておくことは、後にも先にも今しかできません(ひいては人類史における資料になります)。
もしかしたら記録する作業は絶望するほどに孤独かもしれませんが、きっとそれはあなたがあなたであるために必要な孤独です。他人や機械によるサジェストは一時的な幸福をもたらしますが、地位や金銭、名誉がなくなった瞬間に心地いいそれらは真っ先に無責任に消えていくことでしょう。あなたがあなたであることに最後まで責任をとって添い遂げてくれるのは、ほかでもない自分自身の生み出したエゴイスティックな感性だけなのです。
自分のように生きられる人間は自分自身しか居ません。だから皆さんもわたしの人生をそのまま真似しようとする必要はないですし、わたしも皆さんの人生は生きられません。
けれども、それぞれが、それぞれの持つ考え方や美学に対して、極めて誠実にあり続けるべきだ、という考え方を「妄想」と呼ぶなら、それはきっと各々の人生にとって良い作用を齎してくれるものだと思います。
[1] 仏仏辞典「Le Grand Robert de la Langue Française」(2001, Dictionnaires Le Robert)にはこう書かれている。「会話中に気まずくて長い沈黙があるときに言われます」(se dit quand il se produit dans une conversation un silence gêné et prolongé)
[2] 岩波書店「広辞苑 第七版」2018年1月12日発行
[3] 宮田雄吾『14歳からの精神医学』 p.102
[4] 実際にはそこにないものを知覚してしまうこと。幻声が妄想を作り出していくこともある。宮田雄吾『14歳からの精神医学』(2011) p.103
[5] 永井政之監修 『ふっと心がかるくなる 禅の言葉』 永岡書店(2006)
[6] フジテレビ『ピンクムードショウ』『オールナイトフジ』など、おもに深夜帯に放送され、ヌードのキャストなどによる過度な露出が為される番組。当時より「低俗」と非難を受けていたが、形を変えしばらく残り続け、1997年にテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』がテレビ東京深夜帯において数度再放送され驚異的な大ヒットを記録したことをきっかけに首都圏を中心に「深夜=お色気」→「深夜=アニメ」という風にシフトしていった。
[7] 株式会社エイチームフィナジーによるもの。「お金の不安を解消する」メディアのナビナビ保険にて、15歳以上75歳未満の男女約450名を対象に実施。
調査期間 :2022年12月21日~2022年12月23日
調査委託先:株式会社ジャストシステム(Fastask)
調査対象 :全国のジャンルを問わずなんらかの推しがいる15歳以上75歳未満の男女
サンプル数:444名
調査方法 :インターネット調査
[8]株式会社ネオマーケティングが運営するアンケートシステムを利用したWEBアンケートより。全国の16歳以上79歳以下の男女のうち推し活・ヲタ活(特定の人・モノを応援する・知識を深める)をしている人を対象に実施。
有効回答数:1,173名(スクリーニング調査は1,803名に実施)
調査実施日:2024年3月19日(火)~2024年3月25日(月)
[9] 15歳少女、ホストに600万円 酒提供容疑で大学生逮捕―警視庁,時事通信 社会部, 2024年04月10日 https://www.jiji.com/jc/article?k=2024041000540&g=soc
[10] レナード・ムロディナウ『しらずしらず――あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』ダイヤモンド社,2013
[11] クシノテラス | 美術手帖 、https://bijutsutecho.com/museums-galleries/353
[12] 編)ボーダレス・アートミュージアムNO-MA 写真)大西暢夫『アウトサイダー・アートの作家たち』,p.118 (2010.03.10)
[13] 椹木野衣『アウトサイダー・アート入門』,幻冬舎, 2015 p.19
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