根源的思索/妄想のはじまり
はじめまして、渡辺健一郎と申します。肩書に「俳優・批評家」と並べていて、舞台に立ったり、本を書いたり、大学で講義をしたりしています。
「批評家」は、作品や現代社会について、自分の言葉で意見をのべる人だと思われていることでしょう。他方で「俳優」は、他人の書いた台詞を喋り、自分の言葉を持たない存在です。この両極に身を置いていると、「自分の言葉」とは何なのかといつも分からなくなり、そんなことばかり考えています。
さて私は学生のころフランス哲学を学んでいて、大学院の修士課程に進学しました。しかし、妄想が嵩じて博士へ進むことは諦めました。
哲学の研究室では、文献研究が基本です。とにかくまずしっかり本を読む。並行して、二次文献や最新の研究書も読む。一冊の哲学書をちゃんと研究しようとすると、その十倍、百倍、あるいはそれ以上の文章を読まなければなりません。人文科学なのですから、ちゃんと証拠のある正しい知識のもとに解釈を進めるのがまっとうなやり方です。
ところが私は、哲学書を読んでいるとき、つい妄想が膨らみ、本を読む手が止まってしまいます。
例えば先日、ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』(原著、1762年)という教育哲学書を読んでいました。日本の教育論にも極めて大きな影響を与えている著作です。簡単に紹介すると、大事にすべきは人間の自然本性であり、そのために教育者ができることは何なのかということについて、架空のエミール少年を主人公に、物語仕立てで書かれた本です。
子どもをよりよく教育しようとして、大人はあーだこーだと色々手を出しすぎる。無理に勉強を教えたり、社会的なマナーを身につけさせたり、そんなことは人間の自然本性から遠いとルソーは考えます。大人は子どもを知識やルールで過剰に拘束したりせず、子どもが自然に育つに任せて、時々手を添えてやるくらいの「消極教育」をするのが良いのだ、ということです。
ここまでが『エミール』の一般的な解説。ここから私の妄想は始まります。
今年の六月、私にも初めて子どもが生まれました。いまもベッドで寝ている赤ちゃんの様子を横目で気にしながら原稿を書いています。ミルクとオムツさえ面倒見れば、概ね心地よさそうにしています。が、ときおり理由の分からないグズりが発生します。さて、どうあやしたものか。
もはや子育ての常識となっていますが、赤ちゃんは手足を自分で動かそうとするだけではなく、勝手に動いてしまって、その動きに自分でびっくりして寝られない、といったことがあります。そのため「おくるみ」などで手足の動きを制限すると、意外にすやぁと寝たりする。
さて子どもの自然を大事にすべきとしたルソーは何と言っているか。彼は、子どもは手足を自由に動かすことで身体の動かし方を学び、健康になっていくのだから、身体拘束をしてはならないと、『エミール』の序盤で何度か書いています。おくるみ批判とみて、ひとまず間違いはないでしょう。
生まれたばかりの子どもは、手足をのばしたり、動かしたりする必要がある。長いあいだ、糸玉のようにちぢこまっていた麻痺状態から手足を解放する必要がある。[中略] 子どもの手足を動けないようにしばりつけておくことは、血液や体液の循環を悪くし、子どもが強くなり大きくなるのをさまたげ、体質をそこなうだけのことだ。[中略] こういう残酷な拘束が気質や体質に影響せずにすむだろうか。[1]
ルソーの時代の「拘束」はなかなか強烈なものでした。「スワドリング」などと検索してもらえれば分かると思います。完全に赤ちゃんを身動きできなくしてしまい、しかも泣きわめいても長時間そんな状態を維持していたようですから、ルソーの拘束への反発には理解もできます。とくに疑問をいだくことなく、読み飛ばすこともできる箇所でしょう。
彼はおくるみに限らず、人間社会のあらゆる「拘束」を批判的に見ていました。なるほど彼の提言の一つ一つは納得できることも大変多い。規律、規範、規則。ほとんど何のためにあるのか分からないようなものから、私たちが無自覚に受け入れてしまっているものまで、現代にも無数の拘束があることは間違いありません。
しかし大人が抱っこして赤ちゃんが落ち着くのはなぜか。人肌の温かみなどもありますが、「くるまれている」という感覚が重要です。赤ちゃんにとっては「くるまれている方が自然に感じる」ときもあるのではないでしょうか。いま私の子どもはベッドで寝ていますが、気づくとよく両手を枕の下に入れています。「おさまり感」みたいなものを、自然と求めているような感じがします。
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