1章:大人になれないとされる「オタク」としての自分
いつまでもアニメや漫画にのめり込んでいる人間は、はたして本当に未熟なのだろうか。
私は、アニメや漫画に代表されるサブカルチャーを愛好するいわゆる「オタク」であり、さらにこれらの作品を取り上げて批評を書く人間だ。このように説明すると、「このキャラクターこそラスボスなのではないか?」「この描写は実は最終話の伏線だったのでは?」などの作品考察を書いていると思われることが多いのだが、それは少し違っている。私は、社会学であったり哲学であったり何かしらの理論とサブカルチャー作品を照らし合わせて、新しいものの見方や生き方を解釈し、それを文章にして世に出している。
このように、サブカルチャーを題材にして批評というなんだか難しそうな文章を書くに至っているわけなので、私は当たり前のようにアニメや漫画の観賞に日々没頭している。心が惹かれた作品は何十回でも見返すし、好きなキャラクターのセリフを完全に覚えてしまうことだってある。心が揺さぶられたシーンは繰り返し読み込み、その度に滝のように泣いてしまう。私は、いい作品に巡り会えたときが一番生きている実感が持てる。
ただ、そのようにして生きる私の心にずっと引っかかっていることがある。それは、「オタク」的趣味は「成熟」していない人間が持つものであり、いつかは卒業するべきものとして世間から扱われることだ。
そもそも、人が「成熟」するとはなにか。実は、このテーマは文学においてかなり重要なテーマであり続けている。「成熟」という概念の提唱者である江藤淳の代表的な著作『成熟と喪失』において「成熟」は次のように定義されている。「成熟」とは、自分のすべてを受け入れて守ってくれる母性の領域から個人が社会に踏み出して社会と守るべき他者に責任を持つことである、と。つまり、現実の社会に出ていって他者と出会い、社会への責任を取れるようになることが「成熟」なのだ。そして、どうやったら「成熟」できるか、そもそも「成熟」は可能なのか、文学はずっとこの課題に取り組んできている。
この「成熟」というテーマは文学のみならず、サブカルチャーとも深く関係している。「成熟」できていないのが「オタク」だという批判をされることが多いのだ。
たとえば、「オタク系文化」をもとに一九七〇年代以降の文化的世界を分析した東浩紀の『動物化するポストモダン』では、八〇年代末に起きた猟奇的な連続幼女誘拐事件をきっかけに、「オタク」は「非社会的で倒錯的な性格類型を」持つという認識が世間、とりわけ非「オタク」の人間に広まり、「オタク」と非「オタク」の間に深刻な分裂が生まれたと述べられていた[i]。わかりやすく言うと、「オタク」は自分の殻にいつまでも閉じこもっていて他者とのコミュニケーションができない人間であると、非「オタク」側の人間からバッシングされていたということだ。東はこのような「オタク」への認識について「このような理解はいまでも一般的」と述べていた[ii]。
とはいえ、東の『動物化するポストモダン』が刊行されたのは二〇〇一年のことだ。それから二〇年以上も経った二〇二四年の現在、「オタク」が世間に受け入れられやすい時代になってきているという指摘もあるだろう。たしかに、フランクに自らを「オタク」だと呼称する人間が多く見られるようになった。また、「推し活」という「アイドルや俳優、インフルエンサー、アニメのキャラクターなどを様々な形で応援する活動」[iii]という意味を持つ言葉が二〇二一年の新語・流行語大賞にノミネートされてもいる。
これらのことが指し示すように、「オタク」が痛烈に批判された時代と比べると、アニメや漫画などのサブカルチャーを愛好することは確実に一般的になってきている。「オタク」と非「オタク」間の分裂が無くなってきつつあるのは間違いないし、「オタク」は「非社会的で倒錯的な性格類型」[iv]である、という世間の認識も薄れてきているのは確かだろう。
しかし、「オタク」は「成熟」できていない、つまり精神的に幼いという批判が未だに行われるのもまた事実である。たとえば、二〇二一年に刊行された『ジャパニメーションの成熟と喪失』において、著者の杉田俊介は「オタク的な精神の特徴は、成熟の不能にあると言われる。」[v]と述べ、「オタク」は現実から逃れて「仕事や趣味に没入し、社会問題に関心を持たない」[vi]ような享楽的な冷笑主義を持つと
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