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本書を企画する「次世代の教科書」編集部からは「いまのわたしの妄想」、とりわけ妄想と「生死・倫理」にまつわる原稿を書いてほしいということで依頼を受けた。何からふくらませようかというところだが、ひとまず自分が感じていた不都合を起点に始めてみたいと思う。
「死にたい」と思っているとき、「生きなさい」と促してくれる言葉に素直に従えない。そんな感覚にひきずられていた時期があった。
自殺予防のセーフティネットはひとまずのところ整えられているのだから、たとえば心療内科に行くことだってできるし、前向きな言葉をかけてくれる本だっていくらでも見つけられる。お医者さんは専門家だから、必要以上に迷ったり心配をしなくても大丈夫。そうわかっていても、うつの時はなかなかからだが動かないこともあって、後者の「言葉」に頼りがちになる。本でも、音楽でも、映画でも、様々な媒体から「生きよう」というメッセージが届けられる。
なぜか、その「生きよう」という言葉が自分の中に浸透していかないのであった。「生きよう」と言われても、からだが動かない。
逆に、「死にたい」の磁場に引き寄せられるとき、自分のからだがどこか深いところで振動するような気がする。たとえば森山直太朗が「しねばいい」と歌うとき、からだはどこかで共感と安心を覚えている。面白いことに、「死にたい」になら反応できるのだ。でもからだが「死にたい」の通りに動いてしまっては、死んでしまう。
死にたくも生きたくもあるときには、いったいどうすればよいのだろう。
ところで、辛いときにも人は妄想するはずだ。一歩手前のところにとどまって。こういう場合でも、妄想だけはできる。楽しい。なんとかならないか、思い悩む。〜がしたいな。〜だったらいいな。こうしてなぜ「死にたい」になら反応できるのかを突きつめて考えていくと、「死にたい」それ自体すら妄想であるためだという見方に着地する。
だから、「死にたい」と妄想は循環するともいえる。「死にたい」がゆえに一歩手前で死なないための妄想をする。それでも「死にたい」自体が妄想の一部になってしまう。「死にたい」を防ぐために「死にたい」と妄想し、螺旋上にやりすごすことでいくらかの時間は過ごせるかもしれないが、根本的には「死にたい」の磁場から抜け出すことはできていない。
ここで思考のきっかけとしてみたいのは、妄想の方向に向かってなら、からだが動くということである。心と体が合わさったからだという意味で。「死にたい」に向かってなら、どんなに辛い状況でも、からだは動く。では、からだが動く方向性の内側で、擬似的に「死にたい」という妄想を実現することを考えてみてはどうだろうか。
たとえば移民的な行為である。拙著『日常的な延命』のなかでは、どうにもこうにも生きられなさそうな自分が移民を試みた時の体験について記した。ひとつの例としてなぜ移民的な行為を紹介したかというと、移民が「これまでの人生にある程度の踏ん切りをつけられる」特徴を持っていたからだ。ただ言葉の通りに死んでしまってはそれで終わり。でも心のどこかでは「死にたい」の裏側に「死にたくない」という感覚が薄くはりついている気もする。それならば、あえて擬似的に死ぬための回路を利用して、生きる方向にからだを動かそうとする可能性に賭けてみるのはどうだろうか。
これまでに生きてきた自分を死なせること。そして、死ぬことを生きることへと反転させる。この擬似的な自殺の過程においては、からだは動く。生きようというつもりでからだが動かないのであれば、その辛くて苦しい自分自身を死なせるために動けば良い。他者からの「生きさせようとする」手助けにすら疲れてしまったときは、自らを死なせようとする重力に従って、ゆるく人生を生き直せば良い。移民的な行為は、言葉通りに死んでしまうのではなく、死ぬことで生きる道でもある。
このようにして考えていくと、妄想とは、からだを動かす根拠として機能するものであるといえるだろう。妄想のひとつの特徴である。
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次に、妄想にまつわる状況の話を展開したい。妄想についていくら言葉を費やしていても、むしろ妄想を典型的な認識のなかにとどめてしまうことだって起こりうる。ゆえに本文では、妄想という言葉や動向それ自体から妄想の定義を拡張していくというよりも、あえて周囲の状況を語る。そういった過程において、妄想の働きがより具体的な輪郭を持って立ち現れるのではないかと考える。妄想を安直に語らない、いわば迂回しながら語ることで、妄想と生の現場が絡む動態を記述することを目指す。
まずはバーチャルな主体の話をしたいと思う。『日常的な延命』の一部では、現代を生きる人々が、デジタルな情報処理に適したあり方へと変わってきている状況について考察した。ぎゅっとまとめて紹介すると以下のようになるが、いきなりすべてを理解できなくてもよい。まずは漠然とでも想像してみてほしい。
情報のアルゴリズム化が進んでいる現状では、社会とは具体的な意味で隙間なく埋め尽くされているような空間である。そこで過剰な情報処理に慣れると、主体は非常に「なめらかな」ものになる。テレビの画素数のように、でごぼこした穴が情報の密度で埋められれば埋められるほど、なめらかになる。情報のピクセルのようになったバーチャルな主体は、そのなめらかな世界の中で瞬時に飛び回り、時間という距離を感じなくなる。多動的すぎる自らを制御することが難しいのなら、その状態を落ち着かせて、地に足のついた状態に変えていくことはできないだろうか。決まりきった情報の渦から発生するコミュニケーションではなく、現在の出来事をひとつひとつ新鮮に受け止め、吟味できるような回路を見つけていくことはできないか。
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