「日常の裂け目系」という謎
『日本の同時代小説』(岩波新書、二〇一八年)の中で斎藤美奈子は、一九九〇年代を「女性作家」1が台頭した時代だと位置づけている。具体的には、笙野頼子、多和田葉子、松浦理英子、高村薫、宮部みゆき、桐野夏生、川上弘美、小川洋子、角田光代など、そこには実に多くの「女性作家」の名前が挙がっている。ではこの時期に、力のある女性作家が続々と登場したのはなぜか。その理由について、斎藤はふたつの理由を挙げている。ひとつは、各種文学賞に女性作家が選考委員として加わったり、女性の編集者や記者が増えたりしたことで作品を受容する雰囲気や作品評価が変わったから。そしてもうひとつの理由を、斎藤は次のように述べている。
もうひとつは、もちろん書き手に属する要因です。八〇年代のさまざまな実験を経て、九〇年代初頭、文学界の周辺では「もう書くことは残っていない」とさえ囁かれていました。しかし、有形無形の壁にはばまれ、差別と偏見の中にいる女性には、書くべき材料がいくらでもあった。書かれていないことだらけだった、といってもいいでしょう。
九〇年代作家の多くは、一九五〇~一九六〇年の生まれ。意識しようとしまいと、七〇年代のウーマンリブや、八〇年代のフェミニズムの風を十代、二十代で受けた世代です。女性の主人公のパラダイムはやはり、ここで大きく変わったのです。
ここで興味深いのは、「女性作家」たちは必ずしもリアリズムの作家ではなく、現実と幻想、妄想が入り混じったような作品を描いていたということだ。一部の作家たちは妄想を膨らませたような非現実的な作品を書いたり、日常の中に潜む不確かな感覚を非現実的な事象を交えて作品に落としこんでいたりした。斎藤の言葉を借りれば、笙野頼子、多和田葉子、松浦理英子は「妄想炸裂系」、川上弘美、小川洋子、角田光代は「日常の裂け目系」である。しかしこれは、考えてみれば少し不思議な現象である。「差別と偏見の中にいる女性」たちが、社会派的なリアリズム作品のなかで女性の権利や問題解決を訴えるというのであれば、まだわかりよい。たとえば、桐野夏生の『OUT』(講談社、一九九七年)はパート労働者として働く四人の主婦と、それぞれが抱える家庭の問題が描かれている。また、宮部みゆきの『火車』はクレジットカ―ドの多重債務者となる女性を描いている。高村薫は『レディ・ジョーカー』の中で被差別部落や障害者の問題を描いている。再び斎藤の言葉を借りるならば、宮部みゆき、桐野夏生、高村薫は「現実直視系」である。しかし、「妄想炸裂系」と「日常の裂け目系」はそのようなリアリズムの手法は取っていない。
もちろん、この背景には、八〇年代のポストモダン文学の流れがあったということが指摘できる。八〇年代には村上龍や村上春樹が登場し、脱リアリズム的な作品の流れがあった。その影響を直接受けていないとしても、その流れのなかで「女性作家」のポストモダン的、脱リアリズム的な作風が受け入れられていったのは、自然なことである。ではその脱リアリズム的な作品は、その「女性作家」らにおいて具体的にどのように描かれ、ウーマンリブやフェミニズム的な思想とどう関係していったのか。
それがよりわかりやすくはっきりと出ているのは、「妄想炸裂系」のほうである。たとえば、笙野頼子の『母の発達』(河出書房新社、一九九六年)は、母との関係に失調を来した娘「わたし」の語りによる小説で、母が縮んで見えるという「母の縮小」をはじめ、「母の発達」「母の大回転音頭」の計三篇からなる短篇小説集である。また松浦理英子の『親指Pの修行時代』(河出書房新社、一九九三年)はある日「私」の足の親指がペニスになってしまうという小説で、新たなセクシュアリティを模索した作品として評価が高い。多和田葉子の『聖女伝説』(太田出版、一九九六年)もまた、少女小説的な「わたし」の語りによって連想ゲームのように性を自由に描こうとしている。これらの作品に共通しているのは、非現実的で幻想的な事象を描きながら、そのなかにフェミニズム、あるいはジェンダー、セクシュアリティに関わる問題提起が色濃く受け取れることだ。実際、三者はフェミニズム系の作家として長らく活動し、認識されてきた2。
わからないのは、「日常の裂け目系」の作家たちである。彼女たちが描いたのは日常に見える日々のちょっとした危うさのようなものだ。川上弘美の『蛇を踏む』(文藝春秋、一九九六年)の表題作は、踏んだ蛇が主人公「わたし」の母を名乗り、部屋に住みついてしまう話で、斎藤美奈子は、「「現実と異界の間」にある世界という点では、笙野頼子や多和田葉子とも共通」するという指摘をしている。小川洋子は『妊娠カレンダー』(文藝春秋、一九九一年)表題作で妊娠した姉夫妻とそれを見守る妹「わたし」の不穏な日々を描いている。角田光代はのちに直木賞を受賞する作家だが、コバルト文庫出身で、少女小説のジャンルから出てきた作家である。『まどろむ夜のUFO』(ベネッセコーポレーション、一九九六年)の表題作はUFOを信じる高校生の弟に次第に感化されていく「私」の話である。彼女らの小説――少なくとも当時の小説には、「妄想炸裂系」の作家と同じように、明確なテーマやわかりやすい問題提起が感じられない。まったくないわけではない。
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