生き物はいつ死ぬかわからないのと同じように、いつ生まれてくるのかもわかりません。
思えばきわめて当たり前のことなのに、不妊治療を始めるまで私はそのことを心の底からはわかっていませんでした。
むしろ体外受精をすれば、妊娠出産は計画的に進むのではないかとすら思っていました。だから、自分が会いたいという理由で子どもを産んでもいいのか、そんなことにばかり頭を悩ませていました。
実際に不妊治療を始めてみると、全く計画通りになんかいかなくて、出産どころか妊娠までの道のりも遠く、本当に自分の人生にあるのかどうかわからない「妊娠出産」という場所を目指して暗い道を歩かされている気分です。いま思えば生まれてきた子どもについて考えるなんて早計で贅沢なことでした。
たしかに不妊治療を受ければ、卵子を成熟させる薬を処方されて、内診で採卵に最適なタイミングもわかります。さらにプロフェッショナルな胚培養士が受精までしてくれるけれど、でも結局、それで命が誕生するかどうかまでは、人間の思い通りにはならないのです。
■2023年 梅雨
私が通っている不妊治療の病院は殺伐としています。
初めてこの病院を訪れたのは2023年の梅雨時でした。結婚生活も二年目になり、私たちでも子どもができるのかしらと思って、何もわからないまま不妊治療について訊きに来たのが最初です。この時点で妊娠に向けて何もしておらず、不妊治療とはどういう風に進めていくのかまず知りたかったのです。
しかし、勝手に想像していたような先生との相談の時間はなく、いきなり夫婦揃って不妊検査が始まりました。私は甲状腺の数値が低かったので、あれよという間に専門の病院を紹介されて、お会計はたしか数万円でした。不妊治療はお金がかかると聞いていたけれど、気軽に行った初診でいきなり数万円もかかって、これからどうなるのだろうと精算機の前で呆然としたものです。
甲状腺の数値が低いと、うつ病とよく似た症状が現れると言います。私は十代から長年悩まされてきたうつ病の原因がついにわかったと思い、寛解への期待を胸に病院へ向かいましたが、甲状腺専門病院の基準では問題がないそうで、妊娠したい身としては安心したけれど、同時に拍子抜けしたような気持ちにもなりました。
検査から会計まで三時間ほど要した疲労感を抱えて、不妊治療の病院の殺伐とした雰囲気を思い出すと気が重くなり、まだこれからどんな治療を受けるのか説明を受けていなかったこともあって、見通しが立たないまま早くも一年近く通院からフェードアウトしてしまったのです。
■2024年 春
意を決して久しぶりに来院しようとすると、診察の予約をスマートフォンのアプリで済ませるシステムに変わっていて、早速難儀しました。すごく操作方法がわかりづらいうえに、最初は結局病院に直接行かなければ使えないようになっていて、しかしそのことは明記されていないので、なかなか繋がらない電話に一生懸命かけ続けるしかありませんでした。ひとつひとつどうでもいいつまらないことなのに、ただでさえ通院に対してナーバスな気持ちになっているので、些細なことでいちいち通院を拒否されているような気持ちになってきます。
ようやく来院すると、今度は診察室や採血室への呼び出しもアプリで通知される仕様に変わっていました。広い待合室には女性がたくさん座っていて、ここにいる全員がこの使いづらいアプリを使いこなせていることが、とてもじゃないけど信じられませんでした。
通知を見逃さないようにスマートフォンを睨み続けていたのですが、初回だったせいかうまく作動してくれなくて、目の前の診察室から「通知見てます!?」と怒っている看護師さんが飛び出してきました。心も体も一瞬で硬直して、でも「これに食らいついていかないと、不妊治療の道から振り落とされる」と思い直しました。
久しぶりの来院なので、先生の説明から始まると思っていたのですが、診察室の中は薄暗くて内診台がぽつんと置いてあり、カーテンで向こう側は見えなくなっています。診察台とは上部が仰向けに倒れて、強制的に足を開脚させられる医療用の椅子です。羞恥心を遮るためのカーテンの有無は病院によるのですが、どちらにしても自分からは見えない格好で膣に器具を挿入されて検査されるしかないので、恐怖心は拭えません。たぶん診察台に乗って嬉しい人はいないと思います。
私は二十歳くらいの時に子宮頸がん検診で初めて乗って、器具を挿入されるときに怖くて声を上げたら、年配の女性の先生からぶっきらぼうに「なに、セックスしたことないの?」と言われて、それからすごく診察台が苦手です。あられもない体勢の時に他人から高圧的な態度を取られるのは怖いし、性交渉をするのと婦人科で知らない先生に器具を挿入されるのでは不快感も違います。
姫乃さんの不安、緊張、期待、落胆が手に取るように伝わってきて、経験のない私ですら言葉を失いました。子どもがほしい気持ちよくわかります。どうか、お二人に可愛い赤ちゃんがきてくれますようにと祈っています。