2024年9月30日に発売される『妄想講義 明るい未来の描き方と作り方』(「次世代の教科書」編集部編)。新進気鋭24名の著者が「妄想」をテーマに文章を寄せ合い、まったく新しい未来の可能性を開くオムニバス本である。
妄想は自由で楽しいイメージがある反面、一人歩きして良からぬ方向に飛躍する危険性もはらんでいる。妄想をテーマとして扱う上で、編集部自身が「妄想」という概念を深掘りし、その本質を理解する必要があると考えた。
そこで、さまざまな場所で哲学対話をひらく永井玲衣さんに「妄想」ってなんだろう、と一緒に考えてもらった。永井さんは哲学を「身近な日常的な営み」だと言う。なんでだろう、モヤモヤするな、当たり前でしょ、と思い込んでいたけれど、「本当にそうかな」と思えるようなことについて、立ち止まって考えてみる営みを「哲学」と呼んでいると話す。
この記事では、永井さんと「次世代の教科書」編集部との哲学対話を通して見つけた「妄想」の様々な側面を、「問い」という形で紹介していく。
曖昧な概念である「妄想」の解像度を深め、『妄想講義』の世界へ飛び込んでいくための準備運動だ。これを読めば、24人の「妄想」をより面白く実感できるだろう。
「妄想」という言葉の前に立ってみる
結論を急いだり、鋭く批判したりするのではなく、まず理解したいと思うものの前に「立ってみる」こと。それが永井さん流の哲学方法だ。
そこで、編集部メンバー自身が「妄想」という言葉の前に立った時、素朴に思ったことを問いとして言葉にするところから、哲学対話は始まった。コツは、どんなに小さく、とるに足らないと思うことでもいいので、とにかく言葉にしてみること。自分の等身大の感情を無視せずに、ただ表に出す。その試みが、目の前の事柄への固定概念を取り除き、今まで見えなかった真実や側面を照らし出す。
ぜひ、続きを読む前にあなた自身が「妄想」という言葉の前に立って、浮かんできた素朴なイメージを言語化してみてほしい。その結果を、この記事で出た「問い」の中に加えることで「妄想」という言葉のイメージはまた変わってくるはずだ。
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どうだろう。あなたは「妄想」という言葉の前に立ち、何を考えただろうか。
では、ここからは実際に、永井さんの導きで出てきた「妄想」への様々な問いを抜粋して紹介していこう。大切なのは、問いに無理やり答えを与えようとしないこと。そういう問いがあるということ自体を楽しむことだ。
「妄想」という言葉を使わないといけない必然性のあるビジョンとかイメージってんだろう
妄想という言葉の前に立つと、似ている言葉がたくさんあるなと思う。「想像」「理想」「空想」、「夢」なんかもそのひとつかもしれない。それらとの違いはいったい何だろう。「妄想なんだけど〜」と話し出す時と、「夢なんだけど〜」と話し出すときの違いはなんだろう?
「妄想」は何では無いのだろうか?
「妄想」ではないものを明確に定義することができるんだろうか?対義語みたいな?「妄想は〜ではない。」をいっぱい集めたら、妄想の輪郭が見えてくると思う。すくなくとも「現実」ではなさそうだ。
妄想って苦しいのだろうか、楽しいのだろうか
「妄想」は自分自身を苦しめてしまう場合が時が多い気がする。一方で、「妄想」に浸っているときはこの上ない楽しさも感じる。いったい「妄想」は苦しいものなのか、楽しいものなのか。
妄想には賢さがどれだけ関与しているか?
頭の良さは必要か?「妄想」には「理性的では無い」というニュアンスが結びついている気がする。考える素材が全く無い時には、妄想できない気もする。何かの模倣?
英語で”Delusion”って聞いた時と日本語で「妄想」って聞いた時に何か違いはあるか
”Delusion”か”Dream”か”Obsession”…後は”Head trip”。ちょっとスラングっぽい。
仕事の場で、妄想と言われると不安になるのはなぜだろう
「妄想だとこうして欲しくて〜」「見積もり、妄想だといくらです」と言われると「大丈夫…?」となる。コミットしなくていいのかな?って思っちゃう。信頼度がガクンと下がっちゃう。
「妄想しようぜ」って言われるとすごくワクワクする。でもそれってなんでだっけ?
根拠もなく無責任に言い合う、あの時の自由な感じとか、「でもこれ妄想だよな」って現実に戻っていく時の切なさとか、私はどう捉えているんだろう?人生全体においてどういう位置を占めているんだろう?
妄想という評価をされるとなぜイラっとするんだろう
友達に「それ妄想でしょ?」って言われたらイライラする。妄想にはポジティブな時もあるし、両義的で幅広かったり、無根拠で非合理なときもある。シンプルな一般論の回答だけには止まらなそう。だから深ぼってみたい。
妄想によって変わるものは何か?もしくはあるか?
自分で妄想を育ててしまう。良い方向に変わることもあれば、レッテル貼りをすることもある。夢で出てきた話なのに、目覚めて怒ってくるのとか似てるかも。自己完結してるようで、現実に侵食している。
結果的に、ここで紹介しきれなかったものも合わせて、ホワイトボードいっぱいに問いが出た。出てきた問いそのものもそうだが、「妄想」という言葉の前にみんなでゆっくり問い出しをするこの時間こそが重要な価値を持つ。
誰かが〇〇って言ったから、「あ、そうか!」と自分の中で別の考えが引き出される。このような体験こそがまさに哲学対話の意義だと永井さんは語る。
さて、この問い出しの後、あるひとつの問いにフォーカスしてさらに「妄想」への解像度を高めていった。その様子は単行本に収録している。記事単体でも読めるので、気になる人はこちらをチェックしてほしい。
ここまで永井さんと編集部で、問いを切り口に「妄想」という言葉の前に立った。
「結局、問いを列挙したところで何が変わったの?」
と思う人もいるかもしれない。もちろん、この問い出しの前後で現実は大きく変わらないだろう。だが、いままで深く考えてこなかった「妄想」という言葉が、自分にとってどんな意味を持つ言葉なのかが少しずつ見えてきたのではないだろうか。
実は、これこそが、編集部が読者に一番伝えたい「これからの時代に必要な営み」なのだ。様々な情報が飛び交うなかで疲弊し、わかりやすい唯一の正解で自分を納得させてしまう、ということがないだろうか。自分の中の素直な感情や、正しいと思うことを押し殺して。
永井さんの哲学対話を通して実践したのは、わかりやすい正解をコスパよく手に入れるのではなく、物事の本質を丁寧に、でも楽しさをもって追求しようとする試みだ。時間も労力もかかるが、最終的にはそちらのほうが「自分自身が本当に正しいと思うこと」への理解が得られやすい。そして、「自分自身が本当に正しいと思うこと」を、独りよがりにならず対話をしながら磨き上げ続けることこそが、未来を明るく照らし出す。
これは、『妄想講義』自体の大きなテーマでもある。「妄想」という何だか面白そうで、でもよくわからないものを、ひとりで考えるのではなく、24人で車座になって対話するのだ。冒頭でこの記事が『妄想講義』を読むための準備運動だと言ったのは、そういう理由がある。
繰り返し言おう。「問い」に向き合い続けることが、これからの時代に必要な力なのだ。『妄想講義』という本は、その力を身につけるためのものでもある。
もちろん、ただ読んで楽しむだけでもいい。本の使い道は人それぞれなのだから。
さあ、24人の「妄想」を通して、これからの時代を明るく生きていくための力を身につけよう。
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