Ⅰ 金くれりゃうれし、金なけりゃパシリ
パン、買ってこい!
と他人に言われると、私は腹が立ちます。みなさんはどうでしょうか。おそらくムカつくと思います。「何様なんだ?!」と。でも、その人からお金をもらっていたら、「はーい」と指示に従って、近くのコンビニでパンを買って、ついでに自分のパンなんかも買っちゃって、帰り道には「ああ、なんて楽な仕事なんだ」とその人に感謝してしまうかもしれません。
どうしてなんでしょうね?
どうして私たちは単に命令されれば「何様じゃい!」と憤るのに、お金をもらった瞬間、なんの怒りも憤りも屈辱も抱かなくなるのでしょう?
たとえば、友達が急に雇い主に変わったらどうでしょうか。私の学生時代の話なのですが、同じサークルの仲の良い友達に、ライブ会場設営の仕事を請け負っていたミニ起業家がいました。ふだんは単なる友達ですが、ある日、仕事の欠員が埋まらないということで、「入ってくれへん?」と仕事を頼まれたのです。日給二万円です。悪くない。というか、とてもいい。私も金に目がくらんで入ることにしました。しかし、実際に会場に入って働き始めても右も左もわかりません。なんだかわからず動き始めると、陣頭指揮をとるその友人に「それはあっちにやれ!」「あれはこっち!」「それはそこに置くんじゃないってわからないのか!」と指示されたり注意されたりしたのです。不覚にもムカついてしまいました。「なんじゃこいつ」、と。しかし、その指示には従うしかありません。なにせその人は私の雇い主なのですから。なんだか友情にヒビが入ったような気がしました。
私はふだん雇い主からお金をもらって指示を受けて働いています。みなさんもご存じの「賃労働」というやつです。きっとみなさんも一度はやったことがあるはずの、アレです。「パンを買ってこい」という私たち自身にまったく裁量のない窮屈な指示で動かねばならないときもあれば、「この店を任せた」「売れる商品を開発しろ」というほぼすべての裁量を私たち自身が持つ指示もあります。それでも「私の頭となり、私の手足となって、このことをやれ! お金あげるから!」と言われている点は同じです。そして、私たちはその指示を当然のこととして受け入れる。雇い主が足を組んで偉そうにしていても、それはそんなもんだと思って気にしません。お金を払われていなければ「調子に乗りやがって……」とムカつくのに。なぜ、気にしないのでしょう? 「おかしい!」……というわけではありません。しかし、それは素朴な疑問として成り立つように思います。
Ⅱ じいさまは指図されたことがない?!
お金をもらえれば指図されても腹が立たない。このことをはっきりと考えた人はあまりいません。なので、少し遠回りしましょう。ジョン・スタインベックというアメリカ出身のノーベル賞作家がいます。彼の小説『怒りの葡萄』は、アメリカの農民たちが先祖代々(ネイティブアメリカンを銃で追い払って)耕してきた土地を銀行に差し押さえられる場面から始まります。農民たちはその土地に居座って抗おうとするのですが、居座ろうとする農民をトラクターで追い払おうとするのも、実は同じ土地で暮らしてきた元農民なのです。土地を差し押さえた会社に雇われているのですね。主人公ジョードの家族も同様でした。ジョードは刑務所での服役から故郷に戻ってきて、自分の家がなくなっていることに驚きます。しかし、ジョードにはそのことが信じられない。こういうセリフがあります。
「うちのおやじだって、そんなに簡単に出て行ったなんて、合点がいかねえだ。じいさまが、誰も殺さなかったというのも合点がいかねえ。いままで、うちのじいさまに、こうしろなんて指図したやつは、一人もいなかっただもんな」[i]
私はこのセリフを読んだとき、本筋とはまったく関係ないところで、心の底から驚きました。「こうしろなんて指図したやつは、一人もいなかっただもんな」……。そんなことある?! と思ったのです。だって、私なんか幼稚園に入ったときから、どこの誰かもわからない「先生」とやらの指図をきくように教育されてきたのです。私は幼稚園に入る日に「行きたくない!」と大泣きしたそうですが、当然です。「こいつら誰やねん?!」となるじゃないですか。しかも、翌日から「給食残すな!」と指図されるのですよ。最初は笑顔で「小峰くん、こんにちは、こっちに来て遊ぼうねぇ」と言ってくるけど、いやいやいやいや、怖すぎるでしょ。その見知らぬ「先生」とやらの指示を聞くようにしつけられている。
そういう教育はずっと続きます。私はいま中学校の国語教諭をしているのですが、生徒側から見れば、中学校の教員免許を持っているだけの見知らぬおじさんです。そのどこの誰かもわからない見知らぬおじさんが急に教室に入って来て、「はい、では、みなさん、自己紹介しましょう!」とか「ここは大事だからマーク引いて」とか「何頁の何段落目から読んで」という指示を何のためらいもなく繰り出すので
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